このコラムはキリスト教徒が読む可能性が十分に考えられるので、一応断っておく。ここのコラムで「神」「カミ」と表現するものは、ヤハウェ(ヘブライ語: יהוה、フェニキア語: 𐤉𐤄𐤅𐤄、古アラム語(英語版): 𐡉𐡄𐡅𐡄、英語: Yahweh)のことも指さないし、三位一体なる神(イエス・キリスト)のことも指さない。私自身はキリスト教徒なので、キリスト教における「神」を表現する際は『主なる神』『三位一体の神』『私の神』『イエス・キリスト』『キリストとされるイエス』などの表現を用いるし、もう少し範囲を広たいときには『アブラハム宗教の神』などの表現を用いる。
本居宣長が古事記伝で表現した「神」概念は、現代でも日本の神概念に適用していいのか
これは、本居宣長が「古事記伝」で定義した「カミ」の概念である。
さて凡て加微とは、
古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、
其を祀れる社に坐御霊をも申し、
又人はさらにも云ず、
鳥獣木草のたぐひ海山など、
其餘何にまれ、
尋常ならずすぐれたる徳のありて、
可畏き物を迦微とは云なり、
【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、
功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、
悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、
神と云なり、
さて人の中の神は、
先かけまくもかしこき天皇は、
御世々々みな神に坐こと、
申すもさらなり、
其は遠つ神とも申して、
凡人とは遙に遠く、
尊く可畏く坐ますが故なり、
かくて次々にも神なる人、
古も今もあることなり、
又天下にうけばりてこそあられ、
一国一里一家の内につきても、
ほどノーに神なる人あるぞかし、
さて神代の神たちも、
多くは其代の人にして、
其代の人は皆神なりし故に、
神代とは云なり、
又人ならぬ物には、
雷は常にも鳴神神鳴など云ば、
さらにもいはず、
龍樹霊狐などのたぐひも、
すぐれてあやしき物にて、
可畏ければ神なり、
(中略)又虎をも狼をも神と云ること、
害紀万葉などに見え、
又桃子に意富加牟都美命と云名を賜ひ、
御頸玉を御倉板挙神と申せしたぐひ、
又磐根木林艸葉のよく言語したぐひなども、
皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、
そは其御霊の神を云に非ずて、
直に其海をも山をもさして云り、
此らもいとかしこき物なるがゆえなり、】
(『古事記伝三之巻』全九、一二五頁)
この表現は、確かに神道解説書や神社のウェブサイトなどで引用されているのを見かけてはいたが、
当方はド素人なので、けっきょくそれが総量のうちどれくらいからの言及なのかもわからず、また、中世の人間のコトバをそこまでなら適応していいのかもわからず、現代においてはどれくらい適応可能なのかもわからず、この言葉を用いてよいのかわからなかった。
しかし、幸いながら進展があった。
廣田龍平「妖怪の誕生」を読んでいたら、次のような言葉が紹介されていたのだ。
子安宣邦が指摘するように、宣長のカミ概念は「日本の古代神話によって「神」を語る場合に、神道史家や民俗学者を問わず神話のほとんどの言及者が必ずといってよいほど引く(94)」定義である。
(94)…子安宣邦『本居宣長』(岩波現代文庫)、岩波書店,2001年,211-212ページ
廣田龍平「妖怪の誕生 超自然と怪奇的自然の存在論的歴史人類学」(青弓社,2022年)pp.122-123
つまり、細かい話は置いておくとしても
ド素人の現代日本人は、日本の神概念をざっくりコレで定義しててもさしあたりは問題なさそう
な案件だと思った。
(公式見解に援用する方が多分にいるというのだから問題ないでしょう、と思ったということである。)
一応伝えておくと、この概念は
形式的には当時の所説をすべて却下したうえで提示されたものであり、宣長の時代、明らかに異質なものだった。
(「妖怪の誕生 超自然と怪奇的自然の存在論的歴史人類学」(青弓社,2022年)p.123)
らしいので、宣長がコレを書いた当初はラディカルな定義だったらしいということは踏まえるべきっぽくはあるが。
宣長はまた、カミが必ずしも善性で尊敬すべき崇高な存在ではないことを強調する。具体的に挙げられているのは竜、コダマ(天狗)、キツネなど。なかでも竜とキツネは近世だと基本的に生類とされていたが、それらも含め、宣長はカミ概念の包摂性を強調していく。たとえば狐はイヌに負けることさえあるが、人間を化かすことにかけては一流なので、カミなのである(90)。
宣長は真淵と違って、カミを天地に内在する非可感的な霊室だとは見なさない。カミは霊のほかに「現身」(可感的部分)ももつのである(91)。また宣長は、単純に天地がカミだとも考えない。特殊な属性を帯びていてはじめて、ある対象はカミとされるからである(92)。さらにそのカミの観点からは、超越的存在と生類の区分さえも取り除かれる。天地を超越する神々から犬に追われるカミまで、「尋常」でなければ、すべてがカミと見なされる。
(90)
「妖怪の誕生 超自然と怪奇的自然の存在論的歴史人類学」(青弓社,2022年)p.122
キリスト教徒だとて、日本語話者であればぜひお手に取っていただきたい書籍である。
▽この書籍はこっちでもけっこう言及しました
令和6年出版の神道講座書籍にも追認の記述アリ
…で。
「文化人類学の書籍で紹介されていることでも、現時点の宗教学の方面からすると肯定されない」…ということはいかにもありそうだな、とは思ったが、
比較的最近に出版された神道解説書である 『現代「神道」講座』(藤本頼生 著)でも、上記のコトバの追認とみられる記述があったので(該当ページ詳細、もし見つけられたら追記するがこれに関しては期待しないでほしい…)
▽この書籍はこっちでもけっこう言及しました
日本人にとってキリスト教は怪談
「超自然」は日本語圏に現れた端緒から。神的領域ではなく、西洋近代科学との関係によってこそ位置づけられることが可能なものとなっていった。
p.111
↑コレとか興味深いよね。意味はわかんなかったんけど。
この書籍は細かい話が続くし、宗教学の本ではなくて文化人類学の本で、本題は「妖怪」についての書籍で、そしてめちゃめちゃ難しいのであるが、
素人なりにがんばって読んでみたところ、「既存の妖怪研究は『カミの研究』というベースがあったが、その実、〈妖怪〉というのはカミから切り離すことができる」と提示した書籍である、と認識してい……る………
日本語話者系キリスト教徒全員買ってほしい(読まなくていいから/積読からは良質のエネルギーが出るよね)。あと廣田龍平先生(Researchmapへ)を神学校講師として招いてほしいのう…。
※当コラムライターは「日本人にとってキリスト教はホラーとアクションとしてなら受け入れられる(※)」という説に同調する者である。
あ、あと、先日、猛暑の中を図書館に行ってクールダウンしながらボヤっとこんなことを考えた。
日本人がアブラハム宗教の宗教者に対して、かくも嘲笑的な態度で臨むとき、彼らは一体何を言いたいのだろうか?過去の自分は何を主張したかったのだろうか?と。
そして思い至った。
つまり、日本人にとっては「カミ」用語で用いられるものは宣長のカミ解釈が広く(というか、初学者あたりには広く)適用されているがゆえに、『カミは、必ずしも善性を帯びていない』
=カミを善であるとか全能だとか考える解釈は 単純すぎる
=複雑な解釈で世界を見ている俺たち、すごい
…そんなカンジの主張をしたいから、多くの日本人がアブラハム宗教の神解釈をかくも嘲笑したがるのではないかと。
(シンプルに悪口みたいな文面になってしまったが、過去の自分がまぎれもなくそう思っていた側の人間なのでご容赦いだたきたい。自分に対して手加減してもいい文章にはならないなと思うため、こういう表現をとる。るる~…。「聖書」って漢字で書けるだけの人間の時点でこんなこと思ってたんだから、モノを知らないというのは末恐ろしいことである。)
そんなこんなで、このコラムは終わる。
\読まなくてもいいから買ってくれよナ/