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「信仰書」を「キリスト教系の自己啓発本」と抽象化して受け取ることで、心がラクになった話

「キリスト教書」の中には「信仰書」と整理されるジャンルの本があります。

私はキリスト教徒が一人もいない家族で育ち、20歳そこそこではじめて日本のキリスト教の信仰を持つようになりましたが、非常に色んなことで悩みました。

当時私が縁を持ったキリスト教の共同体には

みたいな不文律が ―― あったのかは分かりませんが、少なくとも「四国の田舎に生まれ、そこに生きることを与儀なくされ、家族にクリスチャンはひとりもいない女」は、そう思っていました。

なので信仰書と呼ばれる本をいくつか読んでみて、その都度背筋を正してみたり、そのうちやめてみたりを繰り返して ――

いま感じていることは「『キリスト教書』とは呼ばれない本を通して、信仰が深まった」という実感があるな、ということです。

なので、そういうタイプのキリスト教徒もいるんだということを書いておきたいと思いました。

私とは違うカタチで信仰に燃える方には、これも一種の信仰継承のひとつだと認識していただければ幸いです。

このコラムは『福音をとりまく文化的なものに肌が合わないばかりにキリスト教信仰自体を否んでしまうようなことが、減りますように』…みたいな祈りのもとに紡がれるコラムではあるので、その辺、鑑みていただけると幸いです。

このコラムの主張は5点あります。

このコラムの主張

① 信仰書を通してではなく、別の種類の本を通して神の愛の広さ、深さ、長さ、高さ、を実感するタイプのキリスト教徒もいる。


② 「信仰書とは呼ばれない本」にもキリスト教の存在は高確率で言及される。もちろん “ ポジティブな言及 ” も “ ネガティブな言及 ” もあり、同時に “ 初歩的な知識不足の見解 ” も “ 間違ってはいないが悪意が明確 ” と感じるものもある。それらを忍耐強くひも解いていく過程で、強くなる信仰もある。


③「自己啓発本は功罪ある書物。同じく、信仰書にも功罪はある」という認識を持つことで心がラクになる人もいる。


④ 「ある程度の抽象化や相対化」は人に何かを伝えたいときに必要になるもの。日本というクリスチャンがマイノリティの場で生きるうえで、この認識を持つことで心がラクになる人もいる。


⑤「信仰書は自己啓発とは違う!」という表現は「聖書は神話ではない!」という表現が生む病理と重なると感じている。そして、私たちはその病理に侵食されつつある、と私は感じている。

このコラムの主張を吟味する必要がない人

・「本を読む」という行為を低く見積もる人

・「本を読む」と言う行為を低く見積もるつもりはないが、自分の人生にはとくに不要だという人

・キリスト教を文脈化する必要がない人

…あたりでしょうか?

このコラムはインターネットの海に公開されて、読もうと思えばネット環境さえあれば誰でも読むことができます。どこの馬の骨とも知れない存在のコラムを読む手がかりのひとつとして、私の立場(?)を明かす一旦として、信仰告白してから始めます。

なお、本コラムでは「聖書を読むこと」についての言及が少なくなっていますが、これはプロテスタントにおいて「聖書を読むことの重要性」があまりにも自明の大前提であり、深く浸透している考え方であるため、記述から漏れてしまったという背景があります。

自己啓発書とは何か ―― キリスト教信仰書を同ジャンルに括れるワケ

これを言語化してまとめようと思って、何か一つでも自己啓発書に関するリサーチ本を読まなくてはならないだろう、と思いました。それで手にとったのが「アメリカは自己啓発本でできている」という書籍だったのですが、読んでみるともはや

「自己啓発書の歴史本には、問答無用でキリスト教信仰書が言及される」ということを知りました。

つまり「信仰書≒キリスト教系自己啓発本」は論じるまでもない案件だったのです ―― 。

一応、「信仰書と自己啓発本はちがう!」という意見も目にしたことがあり、かつては自分もそう思っていました。

その意見で見かける視点は

自己啓発書 → 自分が中心
キリスト教信仰書 → 神が中心
だから違う!

といったものです。

確かに、この書籍は自己啓発本を次のように定義して話を始めます。

自己啓発書とは、基本的には「出世指南書」である。もちろん「金儲け指南」という側面もあるが、社会的に出世すればそれに伴って収入も増えるのであるから、一義的には「出世指南」という側面の方が強い。「こういう風に振舞えば、あなたも出世できますよ」と説くのが自己啓発本の基本形だと思っておけば、作業仮説として間違いはない。(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年, 平凡社, p.19)

こういうと、信仰書は定義からはずれるでしょう。

しかし、この書籍は前半で早々に、自己啓発本史において存在感を放つ書籍として牧師の信仰書を挙げます。

そういうこともあって、『積極的考え方の力』という自己啓発本は自己啓発出版史の中でも特筆すべき地位を得ているのだが、これを書いたノーマン・ヴィンセント・ピールは実は牧師さんである。(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年,平凡社, p.81)

その後、信仰書の傾向と自己啓発書の傾向の違いに触れ

そう言うと、「聖職者が現世利益の本なんか書いていいの?」と思われるかもしれないが、実際にこの本を読んでみると、やっぱりなんだかんだ言ってこれは信仰の本だな、という気がする。何となれば、この本の中では「祈り」が持つパワーが繰り返し強調されているから。(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年,平凡社, p.81)

みたいなことも書いています。

けれど、中盤にはけっこう抽象化し

自己啓発本というのは、それを読んだ読者を啓発し、その人のライフスタイルを激変させ、結果としてその人の生活水準を上げるために書かれるものであるわけだが、(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年,平凡社, p.102)

自己啓発本とは、おおざっぱに言えば「人生をより良く生きるためのアドバイスを記した本」ということになるわけだが、(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年,平凡社, p.128)

くらいまで「自己啓発本」の範疇を伸ばしていくわけです。

さらに、「日めくりカレンダー」も自己啓発本に入れていいのではないか ―― と定義していきます。

年末、何だか知らないけれどもあちらこちらからカレンダーをいただいて結局持て余す、なんてことがよくある、中でも困るのがお寺さんからいただいくカレンダー。日めくり式になっていて、一日(ないしひと月)が終わってペラッとめくると、「本尊に合掌すれば信心となる」みたいなありがたい言葉が書いてあるヤツ。あるいは、お寺さんからもらうわけではないけれど、「だれにだってあるんだよ ひとにはいえないくるしみが――にんげんだもの」(by相田みつを)的な言葉が書いてあるカレンダー。
 しかし、よく考えてみれば、こういうタイプのカレンダーも自己啓発本の一種と言えなくはない。いわば「日めくり自己啓発本」。(中略)日付が変わって一枚めくる毎に何か啓発的な言葉が目に飛び込んできて、それにインスパイアされて心機一転、日々の生活が一新するのであれば、そのカレンダーはもはや立派な自己啓発本である。(尾崎俊介著「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」2024年,平凡社, pp.158-159)

「お寺」の「日めくりカレンダー」を紹介し、続いて日めくり系自己啓発の例として、敬虔なクリスチャンの信仰書とみなせる書物、カール・ヒルティの「眠られぬ夜のために」を挙げます(pp.162-166)

そして、この「日めくり」といった形式は、現代でもなおカトリック・プロテスタント問わずキリスト教圏で一定のニーズと生産がなされ続けているジャンルです。

要確認

もっと言うと、「小説系自己啓発」の例としてオグ・マンディーノの「世界最強の商人」を挙げますが、これは、ヨーロッパに広く伝わるイエスの聖家族伝説やパウロの伝説に肉付けして展開されていく物語で、そのストーリーに商人としての指南がちりばめられている…という話みたいです。(pp.107-115)

それらを踏まえ、ある程度の抽象化をしてみると

信仰書≒キリスト教系自己啓発と見做せる地点はある

と言ってもいいではないか、と私は受け取りました。

次の章では、なぜそのような主張をするのか、という部分をお話しします。

なぜ私の心はラクになったのか …… 自己啓発書の功罪

「その抽象化をして何の意味があるのか」「信仰を矮小化していないか」と感じる人もいるかもしれません。

ただ、私の心がラクになった背景には

「 “ 信仰書を読むことはクリスチャンとしてあるべきライフスタイル ” という信号を受け取ると、物事が停滞してしまう」という体感があります。

なお「自己啓発は一定の摂取量を越すとメンタルに悪い」という心理学の調査・研究はあるらしく[要出典/懇意のAIに尋ねてみてください]、その研究結果と自分の体感が重なったという感覚がありました。

そのような経緯から、こういった視点があることを書いておくのも意味があるのではないだろうか、と感じました。

日本の金属活字の歴史における代表作には「こんてむつ・すむんぢ」――「イミタチオ・クリスティ(キリストに倣いて)」などがあり「日本のキリスト教もゴリゴリに信仰書の影響を受けているのだから矮小化するな!」みたいなご意見もあるかと思うのですが、

「こんてむつ・すむんぢとかが、日本の歴史においてそういう重要な地点に立っていた」みたいな知識は、「信仰書」と呼ばれる本にはおおよそ書かれていないように感じるのです ―― 要確認 

「信仰書を置いて、書を読もう」の先に培われる信仰もある

たとえば自身の信仰に関する悩みがあったとして、「自身の信仰から目を上げて、神さまが用意してくださった別の景色に目を向けてみる」という時間を持つことで、いつの間にかに霧散するものもある、みたいな感じです。 

 ↓要確認 

補足させていただくと「本ばかり読んで、世界を見ないのはよくない」みたいな主張と私の主張は異なります。読書は私にとって「神に許された口寄せ」と主張したいくらい、『キリスト教は読書を否定しないし、神の恵みは書を通して現れることが往々にしてある』と考えています。聖書が、書物のカタチで私たちに手渡されていることの意味を、深く受け止めたいです。

私にとってこのコラムの主張を続けることはそれほど大事なことではなく、私が深くコミットしたいことは

・読書は「神に許された口寄せ」という説 とか
・「聖書は神話ではない」という表現を減らしていきたい とか
・「神話=フィクション」という認識を日本で減らしていきたい とか
・「キリスト教徒は素麺を食べるのを控えるべきか否か」という論争 とか
・エッ⁉素麺は忌避しないのに聖マリア観音は批判するんですか⁉どういう理論ですか⁉ とか
・自認、天狗で生きる とか
・日本食の文脈化について、私の方法論どう思う? 今のところスベッてるんだけど とか
・拝一神教と「寺社焼き討ち」 とか
・すべての教会にホームページを とか

といったことなので、このコラムに深いご意見をいただいても反応できないと思います。

私が、信仰書を置くなかで編み上がってきた、信仰告白のことばで終わります。

参考

余談:尾崎俊介先生の「ハーレクイン・ロマンス」研究本

この本を知るはるか前、2020~2021年くらいだと思うのですが、私は個人的に「ハーレクイン・ロマンス」というジャンルに興味を持ち(私には「夏になるとマンガ化したこれらのジャンルを摂取するという」傾向があったため)、「いつかこのジャンルについて深めたいな」と思って、図書館の書棚からとった本をぱらぱらとめくった記憶があります。

尾崎先生の書籍だったことを、「アメリカは自己啓発本でできている」のあとがきで知りました。

まさか、一度手に取った本を深める前に読む前に、同じ著者と別ジャンル(?)の本を読んでコラムを書くことになるとは思いませんでした。

ということで、最近出た尾崎先生の別の書籍も紹介しておきます。

読んでみたいと思った、尾崎先生の本で言及のあった「キリスト教信仰書」

神とともに歩み、神に導かれる「出世指南」的、信仰書

要確認

私がクリスチャンにおススメしたいと常々思ってる「キリスト教書」ではない本(趣味が爆発)

※ 一般的に「キリスト教書」に区分・整理されない本、というニュアンスです。

▼以下は「キリスト教書」かも(「キリスト教とは、多様な聖書的伝統である」と定義したときに、この「多様な聖書的伝統」には入るだろう、という意味で)