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「みいろちゃんねる」(聖書系Vtuber)への敗北宣言と、公には距離をとりますよという宣言【キリスト教福音宣教会/摂理への考え方】

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キリスト教にまつわる発信をする人で、「Vtuber(バーチャルユーチューバー)」という形態をとっている人をとりあえず応援している。

(→この記事を書いている私たちについてはこちらから)

日本から生まれた、サブカルチャーの中でもまだ夜明け前の文化。

(もしかしたら明けているのかもしれないが、その判断がつくのはもう少し先ではないと考えている)

そこで何かしらの活動をしている人というのは技術的にも高度なものを有しており・それを視聴者の多い大通りで披露してくれようとしていることに畏敬の念を覚えるし、とにかく「Vtuberだから、視聴してみる」という層が一定数いる以上、そこでキリスト教にまつわる話題が語られるならば少なくとも語られないよりかはすそ野が広がることと思うので、応援している。

(とはいっても、Vtuberへの参入はおそらくピークを過ぎており、Vtuber形態をとっていても視聴回数のしょっぱい動画もある…のを観測している。そろそろ「Vtuber+さらになにかの特色」が必須な段階に差し掛かっていると感ずる。…それも限りなくエンターテイメント的方向に。ましてや宗教系やそれに通ずる学術系のジャンルというのは伸びる前例に乏しいジャンルであり、ましてアブラハム宗教っぽいものに大きく依っているコンテンツは大きな目で見ると…厳しそうな感じはする。今後も注視して観測し、応援できる方向性のものは応援したいと個人的には思っている。)

そんなVtuberたちの中でも、私たちが最初に推したチャンネルは「みいろちゃんねる」である。

(余談であるが、ここで言っているのは『キリスト教や聖書にまつわる話題がメインコンテンツのVtuber』のことであり、そういうくくりを外せば推しているVtuberはけっこういる私たちである)

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声がかわいくて、イラストもすごい頻度で描けて、また言葉のはしばしからあふれる人となりと神さまへの愛が非常に好感の持てる方だと思っていた(みいろさんは5歳のクローンという設定だが)。

2020年の「いのりフェスティバル」ではポスターのイラストも担当し、その活躍っぷりはかなり堂に入ったものとなっている。

(画像:「いのフェス」いのり☆フェスティバル公式サイト 2022/1/12時点)

しかも、「みいろちゃんねる」にはみいろさんだけではなく、ヴァイタリティ―溢れ「神さま大好き」と言って憚らない妙齢の女性たちがわらわら後から参入してきた。2022年1月現在では、みいろさんを中心に約4名ほどが「みいろちゃんねる」で活躍している。

(「みいろ」さん「よせこ」さん「宇治丸」さん「みおん」さんが一同に会した動画。 このウェブサイト上で再生できない場合はYouTubeまで飛んでご覧ください。 )

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妙齢の性格が良くて賢い女性たちがかわいい女の子のアバターでわきゃわきゃしている様は、見ているだけで自然と笑みが零れる。

私たちも、声の仕事を依頼しようと本気で考えていた。みいろさんが出しているLINEスタンプも買った

しかし、ある日、「みいろちゃんねる」がインタビューを受けている記事を見つけた――

(画像:Biblio CGM「博多弁の聖書系Vtuber…?みいろさんの”楽しく生きる処方箋”より)

――のでTwitterでシェアしたところ、

これはキリスト教福音宣教会の記事ですが、認識されたうえでシェアされているのでしょうか?

と耳打ちしてくる方がいた。よく見ると確かにそうだ。キリスト教福音宣教会、CGM、旧団体名「摂理」。

キリスト教メディアや、異端・カルト問題に詳しいとされる牧師により「異端」であるとか「カルト」であるとか「異端かつカルト」であるとか喧伝されている団体のひとつである…とうっすら認識していた。

しかし、これだけではみいろちゃんねるとキリスト教福音宣教会の関係性を推しはかることはできない。「キリスト教福音宣教会」という団体について、自分なりにでも見解を定めているわけでもない。私は様子を見ることにした。

そして、一次情報や周辺情報を集めることができ、キリスト教福音宣教会とみいろさんとの関係性や、それについての自分たちの方向性もある程度固めることができるようになった。

結論から言うと、みいろさん自身もキリスト教福音宣教会に属する信仰を持っている

そして、「みいろちゃんねる」は『教会は関係なく、 聖書をおもしろく読んでほしい・愛だったりとか聖書から学べる価値観をもっと広めていけられたらなとは思って始めてる』と述べているが、キリスト教福音宣教会というのは、『鄭明析先生によって歴史上初めて解き明かされた、「聖霊」の御働き。そして「三位一体」の原理』を元に聖書を読む集団ということである。

また、この投稿は、見方によっては「みいろちゃんねる」のガチファンコンテンツとも呼べる。読まれる各人の目的が何であれ、お役に立てば幸いである。

  • 「みいろちゃんねる」を公に応援しないと判断した理由たち
  • 「敗北」について

を順を追って説明していく。

「みいろちゃんねる」を公に応援しないと判断した理由たち

前提:「みいろちゃんねる」のメンバーがキリスト教福音宣教会の信仰を持っていると判断した理由

15:45 あたりから~ 。このウェブサイト上で再生できない場合はYouTubeまで飛んでご覧ください。

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こちらの動画の15:45あたりから、リスナーからのマシュマロ(投書)を受けて解答している。一緒にいる「よせこ」さんは何も言っていないが、この雰囲気からするによせこさん自身も同じ信仰の共同体に属しているのではないだろうか、と想像できる。(「よせこ」さんに関する追記を下ブロックに記す)

上記でも触れたが、「Biblio CGM」というWEBメディアにインタビューされている。

このBiblio CGM とは、

Biblio CGMは、キリスト教福音宣教会(CGM)の教会に通う
有志のメンバーで立ち上げた、ウェブメディアです。

Biblio CGM

とのことである。

「みいろちゃんねる」初期(?)から相方として活躍されている「よせこ」さんは、自身の信仰について明確に発言することはないように(2022年2月時点では)思われる。

ただ、「よせこ」さんはキリスト教福音宣教会の信仰を明言するみいろさんと共に活動を行っていること、『キリスト教福音宣教会の漫画家』を肩書にもつ「MiK」さんとオンラインで会合をしている様子を観測した。

ここまでの情報を総合的に判断すると、「よせこ」さんもキリスト教福音宣教会に準じた信念を持っていると考えることにさほど無理はないように思われる。

あるタイミングからチャンネルに参加しはじめた「みおん」さんと言う方がいる。天使という設定であり、「みいろちゃんねる」においては、教義の面の指導役のような役割を担うことが多いように見える。

で、こちらの「みおん」さんの別アカウントではないだろうかと考えられるアカウントを発見した。

「みおん」さんが「でんでん」さんではないかと思った理由は、声が同じだと感じたこと・みいろちゃんねる内で語られていたキリスト教福音宣教会独自の教義について、でんでんさんの運営するWEBサイトにその用語の言及記事があったこと・「作曲する」という属性がみおんさんと共通していると思ったことである。

でんでんさんの声

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(みおんさんの声。このウェブサイト上で再生できない場合はYouTubeまで飛んでご覧ください。 )

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「みいろちゃんねる」と距離を置くこと、それをこのような形で公開することを判断した理由

現代の日本では大変ありがたいことに信教の自由も思想信条の自由も認められており、誰が何を信仰していようがどういった思想を持っていようが自由である。

ただ、この日本では「オウム真理教」の地下鉄サリン事件に代表されるような事件もあった背景などから「カルト」と呼ばれる団体の方向性について意見を呈する行為というのは、それなりに認められていると考えている。

(私の職場の「無信念・無宗教・無神論」を称する同僚から何かの思想に対して意見を述べる行為そのものを「日本は和をもって貴しとする、だから、批判を述べることそれ自体が悪いことである」と伝えられた経験が元になっているため、このように記した。何かの思想との対立を避けるために、異なる思想には沈黙するという思想もまた認められるものであると思うが、そうでない思想も2022年の日本においてはそれなりに認められうる行為であると認識する)

とはいえ、例えば「異端カルト110番」に代表されるような、わかりやすいところにある既存の「キリスト教福音宣教会(摂理)」への批判というのは、正直お粗末な印象が強く、これを元にキリスト教福音宣教会について判断する気にはなれなかった。

考え方が違う団体についてはすみ分ければよいだけの話であって、当初私たちは、「みいろちゃんねる」については自分たちがこっそり距離をとるという対処にとどめるつもりだった。

しかし、Twitterアカウントで他のキリスト教徒の方々が「みいろちゃんねる」にリアクションしているので、どうしても目に入ってくることが増えたため、自分たちも気になってきた。

そうして調べるうちに「キリスト教福音宣教会」および「みいろちゃんねる」についての自分たちなりの方向性を決めることができた、ということで、その変遷を記すこととした。

今よりあとに「みいろちゃんねるとはどういうチャンネルか」ということを知りたい方がいたらその判断をする材料のひとつとしてもらえたら、と思い公開する。

引用している資料も元からたどれるように構成してあるので、気になる方は私たちの解釈をうのみにせずご自身で判断されたし、と願う。

このチャンネル自体は、教会とか関係なくみいろ個人でやっているものなので、このチャンネルの目的としては、聖書をおもしろく読んでほしいなぁとか…(聞き取れなかったため中略)…、
愛だったりとか聖書から学べる価値観をもっと広めていけられたらなとは思って始めてるんだけど…
だからといって偏った話にはならないようにって気を付けていたんですけど、こういうマシュマロが来たってことは、みいろが気を付けきれてなかったのかなというところで…
それは大変申し訳ありませんでしたと…

(【多種多様な】おへんじしますわぞ【マシュマロ】2021/07/11 にライブ配信

我々が「みいろちゃんねる」に関する話題に時間を割く理由のひとつに、みいろさんをはじめとするメンバーたちの才能とセンスと根性に卓越したものと限りないリスペクトを感じ、できることなら協力したり仕事を依頼したりしたいと思っていた、というところがある。

ただし、初期から「みいろちゃんねる」のコンテンツのそのもの方向性についての評価は保留にしていた。

というのも、

現状の「みいろちゃんねる」は参加メンバーたちの芸能人的魅力やみいろさんのイラスト力で押し切っている感じであって、コンテンツそのものはかなり宗教っぽいと思う。

(ここで言う「宗教っぽい」とは、「なにかしらの人格を有している存在を『絶対者』と考え、それに対して畏敬なり崇拝なりしている」といった状態を指している。「宗教」の定義は実際のところさまざまであるが、成人するまで曲りなりに「特定の宗教は持たない」と自負して生きてきた現代日本人として、「宗教っぽい」というのが何を指して言われる事が多いのか、というのはそれとなく認識しているつもりである。そういう意味で、「みいろちゃんねる」は、かなり宗教っぽい。一神教の世界観に慣れていないであろう多くの日本人にベクトルが向いているかと言うと、課題が残る構成であると思われる。)

かつ(これはどのVtuber活動にも言えるのかもしれないが)、メンバーやリスナーとの一体感がけっこう初見に厳しい感じに出来上がっており、その点については私たちのチームとの目的に対する手段の選択との哲学の違いを感じる。

もちろん、仕事をされながらここまでのクオリティのコンテンツを公開し続けていることは、誰にでもできることではないし非常に稀有な事であると思うし、みいろさんたちに与えられたタラントであると思う。

しかしながら現時点で「みいろちゃんねる」で語られる聖書の話は何の前置きもなく無謬的だし、「神さま」への愛がメンバーの中であまりに当然の事のように扱われすぎているきらいがある。

(そして、それはチョンミンソク氏由来の聖書価値観である、というのが当方の主張なのだが、それについては解釈の問題であることは承知している。.)

2021年年末に行われた「芸術フェス」という企画の配信では、割といきなり「お祈り」という宗教的行為を行っており、「キリスト教信仰」という文化になじみのないリスナーに目線が向いているようには感じ難い印象を受けた。

(約30分の音声トラブルを経て、31:40 あたりから)

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とはいえ、こちらの「芸術フェス」は「みおん」さん発案の企画なので、
みいろさん自身がどこまでこの主旨に納得して受け入れているかどうか不明である。
また、このように双方向性の強い配信というのは
リスナーのレスポンスを見ながら需要のある方向にコンテンツの軌道を修正していくというのもよくある話なので、
みいろさん自身が2021年の7月ごろ考えていた方向性とは違う方向性でチャンネル運営をするのに切り替えた可能性もあると思う。

ということで、現状の我々の考えは以下のようにまとめることができる。

「みいろちゃんねるの真の目的は、すでにキリスト教信仰を持っている人との接触」なのであれば、事実成功していると思うし、納得感はある。

が、であるならばそれは「正体を隠した勧誘活動」に該当すると思うので、それには不信感が伴う。

方向性を修正してキリスト教徒のたまり場として配信するというのであれば、現段階で私たちはその働きへの支援は行わないので、応援リストから外すことになるし、

みいろさんの公式見解を信じるならば、目的と手段が合致していないチャンネル、という評価である。

(9:00あたりから「絶対信仰」という言葉が用いられる。 このウェブサイト上で再生できない場合はYouTubeまで飛んでご覧ください。 )

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聖句:マルコによる福音書9章23節/マタイによる福音書17章20節
聖三位の前に信仰を見せたらしるしと大歴史を成すようになります。イスラエルの民がエジプトから出てきた時のように、自分にとっての紅海を裂いて渡ってこなければなりません。本人が信仰で出てこなければなりません。からし種一粒ほどの信仰で、山を移すような御働きを起こしたことです。
自分の信仰によって行きます。ダビデのように、ゴリアテのような防ぐ存在を退け倒しながら進んできました。御言葉に耳を傾けているということは、生きているということです。ヨシュアも、カナンの地に入る時、山を移すようなしるしを起こしました。自分が何を見て何を行なうかです。
打ち勝ったから存在しています。絶対に信じることによって勝つのです。絶対信仰でのみ問題の解決が可能です。からし種のほどの信仰でもあればできます。絶対信仰を持つことを主の御名によって祝福します。

(引用:CGM公式ウェブサイト 「2021 主日礼拝の主題と要約 2021年6月6日 絶対信仰」項目より
そのほか

絶対信仰はしるしの歴史だ (キリスト教福音宣教会|大阪のおばちゃんブログ)


(4:46より「聖三位」という用語が用いられる)

『聖三位』とは何の事を指しているのか、という話は、インターネットで閲覧できる範囲の教職者や公式ウェブサイトにはなかった。せめてもの資料として、以下に『聖三位』の使われ方を羅列してみる。

一応、カトリックやプロテスタントで主に使われている「三位一体(Αγία Τριάδα)」の語と同じものを指しているようである。

神様がおっしゃる通り、聖霊の感動通りに行なう時に栄えます。
ヨシュアの時代、ヨシュアを中心にして御言葉で力を得て戦って勝利しました。
いつも神様のおっしゃる言葉を守らなければなりません。
聖三位を絶対視して生きれば共にしてくださり、よくなり栄えるようになります。
いつでもどこででも共にしてくださることを忘れず、守るべきことを守らなければなりません。
右にも左にも傾かず、聖三位に頼って共に行なわなければなりません。
そうする時に揺れることがありません。
真実に信じ愛する絶対的な精神と考えを持って生きるなら実感が湧いて大胆に行なうようになります。

(引用:キリスト教福音宣教会(CGM)礼拝の聖書メッセージ

聖句:テサロニケの信徒への手紙一5章12-23節
祈りは対話です。絶えず祈ってこそ、聖三位との間も気まずくなりません。信じずにはいられなくなるし、離れることはありません。祈りは仕事です。感謝して栄光を帰するべきことがあります。それはとどまることをしなかったということです。みんなが聖三位に感謝と愛の栄光を帰するべき時です。
感謝と愛が満ち溢れるのが、私たちの生きる姿勢です。どんなに状況が悪くても、じっとしているべきではありません。できることをしなければなりません。霊と心と体が争ってはいけません。信じる人の辞書には諦めという言葉はありません。神様も主も諦める方ではないからです。

(引用:CGM公式ウェブサイト 「2021 主日礼拝の主題と要約 2021年7月11日 聖三位に感謝と愛の栄光を帰しなさい

神様、聖霊様、御子と出会った場所ー月明洞
ここは元々辺鄙かつ人跡稀な場所で、先生の故郷でもある。1989年、先生は数千人の弟子が入れ、そこで自由に集まって祈れる聖殿を探し始めた。それで、神様、聖霊様、御子は先生に「ここは御心のある場所」だと啓示なさり、20年間修道生活を過ごした月明洞を開発するようにさせた。それから、先生と弟子たちは15年間月明洞の開発に専念した。先生は祈りを通して、毎日神の構想を受け、その構想で建てた。昼夜、季節関係なく、汗を垂らしながら働いた。最後、世界でたった一つの岩の野心作、あんなに大きい八角亭と月明湖、国際規格を備えた運動場、自然聖殿芝風、奇跡の薬水と御子愛の家など数えられないほどよ傑作品を誕生させた。
雄壮な岩の造形と自然聖殿や聖三位を感じたければ一度月明洞に足を運んでみてください!

(引用:神と共に興したしるし

(「みみっとぽじらじ!」というコーナー。主に「みおん」さんによって聖書の解き明かしが語られる)

ここで語られている内容が「聖書を妥当に読んだら普遍的に読み取れること」で構成されているとは思わないのが正直なところである。

すべてのコンテンツを見ているわけではない事が、特に特徴的・印象的だと感じられた例だけ挙げてみた。

いずれも正教会やカトリック、大体のプロテスタントに信仰を置いている人間からしてみれば耳慣れない神学用語だったり、「まあ私はそういうの考えたうえでそう思わんかったけどそういう解釈がいいと思う人もおったんやな、プロテスタントは個々人が聖書を読むことを一応は肯定する宗派だし」くらいに感じられる部分も…なかっただろうか。(なかったのなら問題ない。この記事のことは忘れた方がお互いのためだと思うので忘れてほしい。)

聖書に関する一種の解釈の方法を見ても、特殊な神学用語の用いられ方を見ても、「みいろちゃんねる」では「キリスト教福音宣教会」の独自性を有した聖書のことが語られている。

そしてそれらは、「総裁である鄭明析(チョンミンソク)氏の解釈が色濃く反映された聖書の読み方」というのが当方の主張である。この件については、下記でもう少し詳しく触れる。

ここでは「みいろちゃんねる」うんぬんということを一度離れ、「キリスト教福音宣教会」そのものがいわゆる「社会的カルト」ではないかという懸念について、以下の5点の要素についてまとめる。

断っておきたいが、あくまで『私たちが、キリスト教福音宣教及びそれらの支援に繋がる可能性がある活動を公に応援しないと判断した理由の列挙』であり、これらをもってして『キリスト教福音宣教会はカルトである』と喧伝したいわけではない。

なお、「キリスト教福音宣教会(摂理)」のカルト性と問題点に関しては、研究論文がいくつもある。当記事内でもいくつか引用しているが、時間が惜しい方は素人の戯言など読まずにそれらを読んで判断されるのもよいと思われる。あくまでこれは、それらを読んでも「みいろちゃんねる」の魅力に魅了され、どう考えたらよいのか付き合い方を一年くらい悩んだイチ個人の悩みの軌跡の記録であるという点をご理解いただきたい。

※このブロックでは、性犯罪とそれを巡る問題について言及しています。読み進めるのが困難な方は閉じるなり読み飛ばすなりしてください。

第一に,摂理の教祖,鄭明析(チョン・ミョンソク)は韓国警察から信者の強姦容疑等で国際手配を受け,1999 年から海外逃亡中であったが,2007 年5 月初旬に中国遼寧省鞍山市の別荘などに潜伏しているところを中国公安当局によって逮捕された。日本・韓国における暴行の被害者は数百名を下らないといわれる。日本では被害者の支援者(渡辺博弁護士等)が,2006 年 8 月 10 日に 44 歳の女性最高幹部(韓国籍)が在留資格を不正に得たとして,入管難民法違反罪などで千葉県警に刑事告発した。

引用:キャンパス内のカルト問題―学生はなぜ「摂理」に入るのか ?  櫻 井 義 秀

「キリスト教福音宣教会(摂理)」の総裁:鄭明析(チョン・ミョンソク)氏は、実刑判決を受けて獄にいた。2018年に出所している。

そして現在は、ふたたび同組織の総裁として活動している。

「トップが犯罪を犯した組織で、そのトップは罰を受けたとは言え、出所後また同じ組織のトップに返り咲いている」ということは驚くべきことのように思えるのが正直なところだ。

これに関して、キリスト教福音宣教会の信徒のみなさまはどう考えているのか…というのは、『チョンミンソク氏への実刑判決は不当な結論であった』『冤罪だった』という見方のようである。

鄭明析公式サイトより引用

日本の裁判では、写真週刊誌に書かれた記事が検証されることなく証拠として採用され、司法判断に影響をおよぼすようなことはほとんどありません。しかし、韓国では鄭牧師に関するスキャンダルな報道が数多く報道されており、裁判官の心証への影響が危惧されていました。そして、韓国でキリスト教福音宣教会(CGM)を異端視している伝統的キリスト教派の長老が複数、裁判官の中に含まれていました。

2009年2月、鄭牧師は懲役10年の判決を言い渡されます。裁判の場に参加した信徒は、裁判長が「証拠があるとかないとかいうことが問題ではない。被告人が異端の指導者であり、女性は要求に逆らいづらかったのではないかということだ」と述べたと証言しています。
鄭牧師をめぐる裁判は現代における宗教裁判のように見受けられます。そして判決については、確定後にその信憑性を疑うメディアの報道や司法関係者の意見が多く寄せられています。

(引用: 鄭明析師の生涯ー【公式】CGM鄭明析牧師公式サイト)

▽以下、キリスト教福音宣教会の信仰を持つ方々のWEBサイトより引用

私は先生が裁判で有罪の判決を受けて、

獄の中にいるときに
御言葉を聞き始めました。

なぜ犯罪を犯した人のもとで学ぶのか?

その罪が本当か嘘か、
現場にいるほど明確だったんです。

一般的には語られない先生の真実な姿を
現場にいたからこそ分かるようになりました。

先生は獄中の中にいても、ひたすら神様を愛して、
私達ひとりひとりを愛したんです。

地震が起こったときにはいち早く、
・みんな無事なのか?
・困っていることはないのか?

と気にされ「神様が共にするから大丈夫だ」と励ましていました。また、毎日御言葉が聞けるように、神様の愛を伝えられ、朝晩徹してお祈りをされました。罪を犯す人がそのように生きれるでしょうか?絶対にできないと思います。

(引用:オヤビンとコブンの公式サイト「鄭明析(チョン・ミョンソク)」より

しかし、色々祈っているうちに「鄭明析先生の判決、なんか変なのでは?」と思ったことがきっかけで、鄭明析先生に対する誤解は解けました。

(引用:摂理研究所ー「【自己紹介】satoについて」より

つまり、もしチョンミンソク氏の犯罪が信徒さんたちが信じている通りに冤罪なのであれば、確かに「キリスト教福音宣教会」は不遇な共同体である。

しかし、これらの実刑判決が事実なのであれば、「キリスト教福音宣教会」というのは犯罪者を擁護し、犯罪者に出所後同じような地位を与える、反省のない組織、というレッテルは免れられない…のではないだろうか。

そして、この小見出しで述べた「セカンドレイプ」ということについても触れておく。

現在、CGM信徒の方々がチョンミンソク氏の冤罪を主張する方法のほとんどが帰納法である。

「CGM NAVI」 というウェブサイトでは、チョンミンソク氏の冤罪を主張する際の材料として、「本当に性被害に遭った女性は心労がひどいので訴えるということがしにくいものである」というデータや「暴行を受けた女性は、暴行を受けた数日後に現場付近の防犯カメラに笑顔で歩く姿が映し出されていた」という話を出している。

これを「セカンドレイプ」と呼ぶかどうかは、もちろん意見が分かれると思う。ただ、帰納法で導き出せるのはあくまで「仮説」であって、その状況で、訴えた人間に対してこのような言説を行ってしまうというのは、その組織に対する判断材料となるのではないかと思う。

もちろん、「実刑判決を受け、投獄されていたが出所した」ということは、それは社会的な刑罰を受けたという証であり、出所後の身の振り方を他人がとやかく言うべきではない。まして、それらの犯罪に反省があるかないかなどは、外側から見てわからない事であり、ましてやこれを書いている私はキリスト教という信仰を持っており、神への懺悔と言う行為の他人への伝わりづらさやそれの重要さというのも身に染みて知っていると言いたいところである。

とはいえ、現在も「あれは冤罪だった」と主張する人間が犯罪を反省していると見るのは無理がある、というのが当方の意見である。

そして、「組織」としてのけじめというのは存在してよいし、その「けじめのつけ方の方向性・線引きを行うライン」というのは、その共同体の評価・判断の大きな基準となると考える。

しかしながら、たとえ信徒たちの主張通り「総裁の犯した犯罪は冤罪」だったとしても、「キリスト教福音宣教会」は距離を置くに足る理由がいくつかあると思ったのが我々の判断である。

それらについては追って解説していく。


キリスト教福音宣教会は、公式WEBサイトて

と記述している。

しかし、「現在でも正体を隠した活動」は行われていると判断した。こちらの「オンライン・バイブル・カレッジ」というオンライン聖書講座を見てほしい。

オンライン・バイブル・カレッジ

かなりしっかりデザインされたサービスで、値段もお手頃である。しかし、それなりにキリスト教徒をやっている人間たちからするとやっぱり最初に気になるのは「どういう神学理解に立った学びができる講座なのだろうか」ということである。明記がなければ、運営者情報から判断するしかない。

試しに、一度、アクセスして運営者情報をご自身で探してみてほしい。あるいは授業を行う牧師の名前を調べてみるなどしてほしい。

オンライン・バイブル・カレッジ

…しばし待ちます…

…いかがだったろうか。運営者について、牧師について、周辺情報から読み取れるものがほとんどなかったのではないだろうか。

(画像:「利用規約」第7条が含まれるスクリーンショット)

この記述を「正体を隠した勧誘・教義を広める行為」に該当するかというのは個人の解釈によって変わってくると思う。

ただ、自身の団体が社会的カルトであると見られがちな事を自覚していることが読み取れるわけだが、それにしてはこの記述の小ささは、個人的には疑問を感じる。

※ちなみに私たちは一時期お金を払って受講した。しかし、内容について精査する暇がなかったこと、我々は一般信徒であることなどから、講座内容についての詳細は差し控えたい。受講された方で、レポートしていいよという方がいたら教えてくださると嬉しい。

この感じを見ると、やはりキリスト教福音宣教会という組織は現在でも『運営元を隠す方法で、自身たちの教義を広める活動をしている』と思える。

であれば、「みいろちゃんねるはキリスト教福音宣教会の勧誘活動ではありません」と言われても、真偽の判定ができない。

実際、上記でも触れたように「みいろちゃんねる」は、キリスト教福音宣教会独自の教義を何の説明もなく語ることが幾度かあったし、配信でもキリスト教福音宣教会の特徴を前提とした解釈で聖書を読み解いている様子を感じる。

「言っていることと、実態に矛盾がある」ように思う。


キリスト教福音宣教会(摂理)は、警戒する側の主張として「組織の隠蔽体質」を挙げられることが多い。隠蔽体質であるということは、外側から眺めているだけではわかりようがないというのが正直なところで、これについて真摯に判断しようとするならば、やはりその信仰の共同体にしっかりコミットしてみるべきだとは思う。

…が、「隠蔽体質」ではないかと噂され、「社会的カルトではないか」と新聞社や大学などからも注意喚起をされている団体に『試しに属してみる』ということは、専門家ではない一般人としては勘弁していただきたいのが正直なところである。

(であるならばこんなところで批評に準ずる行為を行うな、という意見もあることとは思う。そういったご意見にともなう我々の評価も、甘んじて受けたいと思う。)

一応、「やはり隠蔽体質ではないか」と思った理由をここに挙げてみる。判断はお任せする。

その理由とは、キリスト教福音宣教会に属する方々のWEBサイトには、高頻度で

本サイトに掲示された絵、写真、文章、映像などの著作物一切は福音の伝播、信仰、教会の親睦、宣教、伝道の目的に創作され、著作権が保護されており、本来の目的以外の用途に使用される場合は、関連法令に抵触する可能性があります。
スクリーンショットなどを含んだ無断転載、他の用途での使用は固く禁じております。

(引用:https://providence-blue.com/site-copyright2018 )

といった旨の記述があることである。

(https://setsuri-musicbouquet.com/)
(https://shakainomondai.com/)
(https://providence-blue.com/site-copyright2018)

「こちらの目的に合致しない目的で一切使用しないでください。無断転載もスクショも法に抵触するかもしれません」というのは、言わば『わが社は労働基準法を採用していません』的な味わいを感じるのが正直なところである。

心無い誹謗中傷を避けたい気持ちはわかるけれど、日本における現行の法律を微妙に読み替えて独自ルールを提示(※)しようとしている行為に変わりない

信徒が勝手に書いているならこの言動の幼さもわからなくはないのだが、これは公式ウェブサイトにも掲載されている文言である。

(※)現在日本の著作権法に抵触するスクリーンショットや複製行為というのは、例えば『これは私のコンテンツです』と主張して公表したり、自分の創作物でないものを公表して著作者に無許可で収益を得ようとしたりする場合である。基本的に、公表された著作物は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内での引用であれば使用してもよいのである。その場合は、著作者の望む「本来の目的」が何であろうが、複製の手段が何であろうが関係ない。また、引用を禁じることができる例外というのもあるが、それは「国等が行政のPRのために発行した資料等に、転載を禁ずる旨の表示がされている場合」であり、キリスト教福音宣教会の公式ウェブサイトおよび、CGM信徒の方々の著作物はこれには該当しない。(参考:文化庁 著作権法の記述


キリスト教福音宣教会の牧師という方のウェブサイトにこういう記事があり、それに関する「でんでん」さんの共感も見つけた。

聖書をしっかり勉強すれば、神様の全知全能さはどういう風に現れるのか悟れるようになりますし、人間の責任分担も分かるようになります。

人生に必要な真理を教えてもらったのだから自ら分かってできるわけです。

少なくとも向かうべき方向は分かります

自ら暗闇に入って行っているのに「こんなに祈ってるのにどうして光が見えないの?」と言ってはいけないという事です。

神様は神様の範囲で完璧にしてくださいます。だから完全な存在者です。

人間は人間の範囲できちんとできないからそれが問題です。

人間の責任分担なのに神様のせいにしてはいけません。

これからは信仰者が次元を上げなければいけないですね。

(引用:信仰者の方が次元を上げよう!女牧師のブログ

この「神は完璧だが、人間側が次元をあげなければわからない事がある」というような言い回しは、「子宮系」等のスピリチュアル系インフルエンサーなど頻繁に用いる表現として印象深い。

私の妻は個人でリラクゼーション業を行っていた際に利用していたアメーバブログで、いわゆる「スピリチュアル界隈」と言われる属性のサービスを提供する方々がこういった表現をよく用いていたのを見ていたそうである。その数年後、社会問題として取り扱われるようになったことを観測した、という話をしていた。

こういう言い回しというのは「自分より大きな存在がいる」と信じられる人にとっては非常に効く言葉だと思う

非常に切れ味の良い刃物なのであり、本当に信頼関係が結ばれており、時にかなっているタイミングですら、抜いていいか、その刀を他人に向けていいか、すごく悩んで祈ったうえで放つ表現だと(個人的には)思っているのだが、

キリスト教福音宣教会の信仰を持つ方々のコンテンツを見ていると、結構な頻度で同じような主張を見つけることができる。

少なくとも現在のキリスト教福音宣教会という組織の方向性はそうなのだろう、と思う。

「摂理(キリスト教福音宣教会)」を脱会した方々のインタビューの中にもそういった組織の思想についていけなくなった方々の声もあるので、あながち的外れな見解というワケでもないだろう。

▽「摂理(キリスト教福音宣教会)」脱会者の声


・自分の足りなさから、「~するべき」「~ねばならない」と自分を追い詰めるようになり動けなくなりました。 同時に摂理や人生に対するいろんな疑問が生じ、誰かに相談しても納得や解決ができなくなり教会にいけなくなりました。

・自己矛盾に耐えられなくなった。自分の中の何かを押し殺してまで自分を好きになることに価値を見出せなくなってしまった。 御言葉自体は確かにいい話かもしれないけど、その御言葉を実践することに限界を感じてしまい、ついていけなくなった。 また、人間関係でも尊敬していた人を尊敬できなくなってしまった。

(引用:脱会者の声ーS-tation~カルト団体「摂理」を考える

「キリスト教福音宣教会」は、信徒同士が生活圏を共にすることを推奨している、という話がある。

摂理の教義を内面化する場面は、バイブル・スタディ、主日礼拝、教会の活動の三領域に分けられよう。伝統的な教会の日曜学校、聖書講座、或いは統一教会のビデオ・DVD 学習(統一教会であることを秘匿した教養講座)や合宿セミナー(団体名と教祖を明かし、メンバーになることを決心させる)とも異なり、摂理の学習は師弟相伝の趣がある。
バイブル・スタディを始めた学習者は日曜の主日礼拝・水曜礼拝・早天祈祷会等に徐々に出席を促されるようになる。礼拝の形式は聖歌、鄭明析の説教(かつてはファクス、現在はインターネットで毎日曜受信される)、代表者による連絡事項の伝達、昼食会、その後の運動等であり、祈祷の最後に「時代の主の御名によって、アーメン(鄭の名を隠す)」と称える以外はおよそプロテスタント教会の礼拝と変わりない。この主日礼拝出席をもってメンバーとみなされるようになるが、厳密なメンバーシップはない。礼拝や学習会への参加が増えると教会に入り浸り状態になるので、近くにメンバー同士が男女別でマンションを共同で借りて住むことが勧められる。

引用:日本のカルト問題 : 「摂理」を事例にー櫻井, 義秀 2007年(PDF

やや古い情報であるし、現在もそんなことが行われているのかにわかには信じられなかったし、信徒の方のウェブサイトでも否定されている。

③外部世界から隔離された場所で共同生活を営み、閉鎖的集団を形成する(そこから犯罪行為に移る)

すみません、こころ思いっきり一人暮らしエンジョイしています!!ヾ(@⌒ー⌒@)ノCGMがこういうことしていると想像したら笑ってしまいました(笑)あんな個性爆発している人たちに閉鎖的な生活させるの無理だよwwwあ、会員同士でおうちシェアして共同生活している人も中にはいますよ。でもその人たちも普通に会社に行って学校に行って…めちゃくちゃ外部世界に飛び出しています。

(引用:キリスト教福音宣教会はカルトなのか?4つの観点から考察してみた

が、「みいろ」さんと「みおん」さん、および「みいろちゃんねる」メンバーの関係性を見ていると、そういった共同生活に近いものが実践されている様子がうかがえる。

(とはいえ彼女らは「Vtuber」なのであり、そういう設定を遵守した発信をしているだけという可能性もあるが…。また、私たちのほうが「友だちがいないだけ」でこのような交友関係を築いているのは一般的という可能性もあるとは思う)

そこで思うのが、先に挙げたような「行いの強調」、そういったものへの啓蒙を行う存在が

――それらを「愛」や「神(絶対者)との関係性」という言葉と共に持ってくる存在が――

自身の生活に深く関わっているという状況は、なかなかに特殊なものであると私は感じる。

個人的には勘弁願いたいと感じるのでここに書いているワケだが、それも個人の嗜好にすぎないし、

もちろん、この個人主義の横行する社会が正しいわけではないと思う面は多々あるので、もしかしたら「キリスト教福音宣教会」のこのやり方のほうが、人間にとって良いものであるかもしれない。

それらを評価できるような知識は現状の私は持ち合わせていない。

ただ、今の「キリスト教福音宣教会」というのはそういった団体であり、それは日本の「キリスト教徒の共同体として一般的なこと」ではないので、知識のひとつとして述べておきたいと思ったまでである。


どうも、このへんのキリスト教福音宣教会側の主張は「キリスト教福音宣教会はあくまでキリスト教の一派である」と言う主張のようである。

キリスト教福音宣教会を「異端である」と喧伝する側は『キリスト教福音宣教会(摂理)は 鄭明析を再臨のキリストであると教え、かなり注意深く情報が外部に漏れないようにしている』という主張をしており、

鄭明析は摂理の設立前に数年間統一教会に所属しており、摂理の教義は統一教会の教義との類似点が多数指摘されている。統一教会で教祖・文鮮明が再臨のキリストであると教えていたのと同様に、摂理でも鄭明析が再臨のキリストであると教えられてきた。

(引用:摂理教祖・鄭明析 今月18日出所予定ーやや日刊カルト新聞

一方キリスト教福音宣教会側は『私たちの信仰はあくまでキリスト教です』と主張する。

一方キリスト教福音宣教会側は一言でいうと、「キリスト教福音宣教会は思いっきり聖書を中心にしているし、聖書めちゃくちゃ引用するところですよー」という感じですかね。
会員が言っても説得力ないかもしれませんが、キリスト教福音宣教会は異端じゃないですよ~。

ではどうしてキリスト教福音宣教会が異端視されるのでしょうか?それは、他のキリスト教の教えとちょっと違くて、新しい観点で聖書について伝えているからだと思います(;^_^A

(引用:キリスト教福音宣教会が異端なのか、3つの点から考察してみた(ココロの心理 キリスト教福音宣教会会員の闘病生活)

その辺は、神学を修めていない私たちがどれだけ言葉を紡いでもむなしいものになってしまうので、ここで深入りするのはやめておく。

(これに関しては、「プロテスタントなんてみんな異端みたいなもんやん」と思う自分もどこかにおり―もちろん自分たちは人間である以上、完璧な神の計画というシロモノを生きている間に判断できるとは思っていないができるならば御心に沿った生き方をさせてくださいと願う者ではある、ということも含めて―「異端か否か」めいた話をするとめっぽう気持ちが滅入ってしまうのであるが)

ただし、キリスト教福音宣教会とは、少なくとも「鄭明析氏の解釈で聖書を読む宗派」であるということは、信徒の方々の発信から読み取ることができた。

ところで…皆さん聖霊様って知っていますか?…いや、これは「摂理」でしか話されたことのないものなんです。
鄭明析先生によって歴史上初めて解き明かされた、「聖霊」の御働き。そして「三位一体」の原理。詳しく知りたい方は…「摂理公式サイト 出会いと対話」を検索!

一つだけ話すと…聖霊様は女性神で「天のお母さん」です。なので、その働きかけもお母さんと通じるものがあります。

(引用:「摂理の天母、聖霊様。前編」摂理研究所より)

(やはりここでひっかかるのが、「みいろちゃんねる」はあくまで『キリスト教福音宣教会の教義を広める・推すものではない』としているところである。
↑のブログによると、「キリスト教福音宣教会」というのはチョンミンソク氏が啓示を受ける以前には隠されていた聖霊の秘儀を体験して聖書を読む共同体ということである。であれば、「キリスト教福音宣教会」の信仰を持つ人たちが聖書を読む際には「(歴史上初めてチョンミンソク氏によって解き明かされた)聖霊の働き」と不可分になるはずで、となると、絶対的に 「(歴史上初めてチョンミンソク氏によって解き明かされた)聖霊の働き」 の独自性が出てくるはずである。であるならば「キリスト教福音宣教会の信仰を持つ人間がただ聖書の解き明かしをすることは、キリスト教福音宣教会の教義によって聖書を語ることに十分なりうるのであり、であるならばみいろさんの『みいろちゃんねるではキリスト教福音宣教会の教義を広める・推すなどはしていない』という主張は矛盾することになるのではないだろうか、という事である)

研究者から言わせると、「その鄭明析氏の解釈」というのが「統一教会」の『原理公論』が元になっているという話しなのであるが

鄭明析氏が単なる一牧師であるのならば、 鄭明析氏をここまでフューチャーする必要はないだろうと思うところではある。

逆に、 鄭明析氏 が「再臨のキリスト」「メシア」であるという主張があるのならば(「キリスト教福音宣教会が、キリスト教福音宣教会たるゆえんに彼の存在が外せない」のなら)、一人の牧師にここまでこだわるのも頷ける。

そして、鄭明析氏 が「再臨のキリスト」であるとするならば……少なくとも今の私たちはそうは思わないので…距離を取っておいた方がお互いのためだろう、と思うところである。

仮に、信徒さんたちの主張の通り、キリスト教福音宣教会(摂理)がキリスト教のひとつの宗派だったとしよう。

鄭明析(チョンミンソク) 氏をメシアだとは考えていない、単なる一牧師であるという考えだったとしよう。

チョンミンソク氏の実刑判決も冤罪だったとしよう。

しかし、現状、キリスト教福音宣教会の信仰というのは総裁である 鄭明析(チョンミンソク) 氏への敬愛が大きくウェイトを占めていることは否定できない事がらだと思われる。それらは彼ら・彼女らの信仰の記述からうかがえる。

その大好きな鄭明析牧師は、かつて実刑判決を受け投獄されていたが、それは冤罪であった――そのストーリーは、ある種の陰謀論として世界を見るメガネであり、そのメガネをかけてこの世界を生きることは、まあまあしんどい、というのが当方の所感である。

(実際「みいろちゃんねる」を応援したいと願い、そのために彼女らが依って立つ世界観を知ろうとして、非常に悩んでいる私がいる。これは今でも非常に私を悩ませている。)

(というか、しんどいので「それは陰謀だったんだ」「ホンモノは異端視されるもの」というルサンチマンに振り切ってしまうと逆に楽しくなる、という話にはなるかと思うが。)

その重いメガネを共有しなくてよいキリスト教信仰は数多あるし、むしろそちらの方が多い。

キリスト教信仰をするのに必須ではないはずの「チョンミンソク氏への敬愛」というものがここまで大きな存在感を占めている組織の教義を普遍のことのように語り、言っていることと行っていることには矛盾が見られる――

となると、不安になるのもご理解いただけると思う。

…以上のような理由から「キリスト教福音宣教会」という組織は、無防備に応援できる共同体であるとは思わない、というのが私たちの現状の見解である。

また、その価値観に準じた配信を行いつつ、自身の立つ立場の特性を(認識しているのかしていないのかわからないが)公にしているとは言い難い「みいろちゃんねる」も同じく、判断がつかない。

なので現時点では距離を置くという決断を行い、それらの思考の軌跡を記した。

我々からは以上である。

これらの『警戒する理由』をもってしても見てしまう「みいろちゃんねる」の魅力、才能あるまっすぐな人たちの活動

「みいろちゃんねる」のチャンネル登録者数は2022年1月時点で350名程度。YouTubeを活動軸とする人間たちの分水領のひとつ「登録者数1000名」にも及ばない登録者数であり、「ほうっておいても問題ないでしょう」と言われれば…それまでである。

(そもそもみいろさん自身は『チャンネルへの低評価も、身内じゃないところに発信が届いている証拠と思うと感動した』であるとか『登録者数ひとりひとりを大事にしたい』という価値観で活動を行っていることがわかるし、そういった姿勢を非常に好ましく思う。ので、外部から観測できる一番簡素な数字などといった野暮な基準で彼女らの働きを測りたくない。)

正直、公に応援することはやめたが、己のTwitterのタイムラインで他人からの「いいね」によって流れてきてしまい、その魅力と吸引力に惹かれてライブを見ることもある。

何ならこの記事を作るために色々見て回っている最中にも彼女たちのコンテンツ力に脱帽するばかりである。

完全敗北、である。

(何と勝負しているんだ、という話は、まあ、できれば好意的にコンテキストを読み取って解釈してほしいのだが、究極のところの解釈は各人にお任せする…)

彼女たちを見習い、私たちも私たちのなすべきことを行いたいと思う。

この記事の公開が誰かの悲しみになるのみであるのならば、主なる神が幾重にも私たちを罰してくださいますように。

余談ではあるが、キリスト教福音宣教会の信徒の方々のWEBサイトを見て回っていると、本当に優秀だったり心優しい人たちが集まっているのだなと感じる。優秀な人たちを多く惹き付けたという点や、自身の向上を啓蒙する感じなどは、少々「オウム真理教(現:Aleph アレフ)」を彷彿とさせる部分がある…気がする。もちろんこれは浅学者の戯言なので忘れてくれてかまわない。

おまけ:記事中では言及しなかったが、読んだ資料など

キリスト教福音宣教会サイド

佐藤紡YouTube(摂理発バーチャルユーチューバー)

「未処理の感情」と向き合う(こころの心理)

キリスト教福音宣教会に警鐘を鳴らすサイド

→韓国と日本 宗教文化交流の諸相(PDF


新宗教を問う: 近代日本人と救いの信仰 (ちくま新書)

(↑こちらの書籍は、摂理に関しての見解はないが、その前身となる「世界平和統一家庭連合 (統一教会)」について言及があり、近代~現代における日本の新宗教を知る入門として為になった。)


以下、余談の中の余談である。

「ナザレのイエスが山奥に現れた時、人は信じることができるか」――

鄭明析氏への崇敬をしている方々のことを考えていて、「鄭明析氏がもし本当にメシアだったら」と考えなくもなかった。

そんなことを考えていたら、こちらの映画のレビューに巡り合った。


哭声/コクソン(吹替版)

「多くの人が、ふとした拍子に考えてしまうのではないか。この混迷の時代、再び原罪を背負ってゴルゴタの丘を登る者が現れるのではないか、と。今またキリストが現れたとして、人はパウロとなることができるのか。韓国のキリスト教会の持つ特徴的な問題にも触れつつ、物語は確信へと迫っていく。その結末は、信仰を持つ者にとっても、持たない者にとっても、あまりにも衝撃的だ。『哭声/コクソン』は、さまざまな問いをわたしたちに突きつけ、そして答えを与えてくれない、良い映画だ」と蝉川氏は分析する。

(引用:【宗教リテラシー向上委員会】 歴史の風雪に耐える証言と物語 波勢邦生 2018年8月11日ーKirishin

このタイミングなのでかなり興味が出てきた。そのうち観てみたいと思う。


▽「キリスト教福音宣教会」のへの主張を知る必要性が出てきたらまた読もうかと思っている書籍たち

▽タイミングが合えば読もうかと思っている書籍たち