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「原城聖マリア観音」カトリック聖職者やキリスト教徒たちの反応

「原城聖マリア観音ホール」というのがオープンしたことを知った。

「原城聖マリア観音」世界最大級木造マリア像が長崎にできたらしい!~令和生まれの島原の乱慰霊活動~

それにあたって少し気になったのが「カトリックの方々はこれをどう思っているのだろう?」ということだ。

たとえばカトリックの正典に含まれている「エレミヤの手紙」には、

非常にクドクドと「人の手で像を刻むこと」のむなしさを書き綴った書簡がある。

プロテスタントが正典としている範囲にココまでのものはないよな…と思えるくらい、とにかくクドクド書いている。

そして現代日本のカトリック教会が、あまり現実を知らないプロテスタントたちがかくも言いたがるように「カトリックは偶像崇拝をしている」というようなことを行っていないことは知っている…。

(私は個人的に確かめなくてはならない事があり、カトリックの夕ミサに参加しはじめて3年ほどになる。クリスマスミサも3回体験させていただいた。)

そんなカトリックの方々は、この聖マリア観音というのをどう感じられるのか?

少々気になり、そのあたりを調べてみた。

制作者・親松英治 氏自身はカトリック信徒

親松英治(おやまつ・えいじ)さんのアトリエは、原城跡から東へ1200キロ、神奈川県藤沢市の「みその台」と呼ばれる高台にあった。緑豊かな8万3000平方メートルの敷地内に、女子修道院、女学校、児童養護施設、高齢者福祉施設などが点在している。

以前は修道院の農作業用の倉庫だったというアトリエで、親松さんは仕事の手を休めて40年間の苦労やエピソードを語ってくれた。

親松さんは1934年、新潟県佐渡の農家に生まれた。農業高校卒業後、佐渡出身の鋳金家、人間国宝の佐々木象堂(しょうどう)氏の内弟子となり、その後、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)で彫刻を専攻。日本最大の総合公募美術展「日展」で最高賞(内閣総理大臣賞)を受賞(2011年)した実績を持つ。

40代の円熟期を迎え、「人生を懸けて一つの作品に打ち込みたい」と思い立った親松さんの脳裏に、原城跡の光景が浮かんだ。

島原・天草一揆で、12万人もの幕府軍は原城を徹底的に破壊。3万7000人の一揆軍は全滅した。

原城跡を訪れた親松さんは、彼らを供養する施設や碑がないことに心を痛めた。カトリックの教義では、「日本二十六聖人」のように無抵抗のまま亡くなった信徒でないと殉教者とは見なされない。

「犠牲者の中には無抵抗だった女性や子供、お年寄りもたくさんいる。彼らの霊を慰める施設がないのはおかしい」──自らも敬虔なクリスチャンである親松さんは義憤にかられ、私財を投じ独力でマリア像の製作に着手する。イメージしたのは、禁教時代、隠れキリシタンらが聖母マリアになぞらえて崇拝した観音菩薩像(マリア観音)だった。

(中略)

とはいえ、育ち盛りの3人の子どもを養いながらの作業は並大抵の苦労ではなかった。そんな時、心の支えになったのがローマ教皇からの祝福だったという。

1981年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の長崎来訪に合わせ、親松さんは30センチ大のマリア像の習作を大使館を通して教皇に贈る。「日本のすべての名もなき殉教者のためにマリア像を完成させたい」と記した手紙を添えて。すると直接、教皇から祝福のメッセージが届いたのだ。ヨハネ・パウロ2世からの祝福はその後も2回、さらに後継教皇のベネディクト16世からも寄せられた。

((《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 Nippon.com)

※黄色マーカーは当コラムライターによる

「マリア観音」というのはキリスト教用語?周囲からは反対もあった

このあたりについて調べるのあたって「『観音』と使っている時点で仏教要素があるのでは?」と思う方もいるようだった。私自身、このあたりについて整理できていなかったので、改めて整理してみようと思った。

幕府軍兵士への追悼も込めた

マリア像の名称に「観音」を入れることには周囲から異論もあったという。ただ、親松さんはこだわった。

「島原の乱では幕府軍の兵士も4000人ほど亡くなっている。彼らを追悼する気持ちも込めたかった。聖母マリアの慈愛は、宗派・善悪・恩讐を超えるのです」

親松さんはそう言うと、再びノミと槌を握り、製作中の彫像に向かったのだった。

((《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 Nippon.com)

ということで、キリシタンではなかった幕府側の死者たちへの弔いの想いも込もっているため「観音」という表現は覚悟を決めてつけられたようである。

「マリア観音」は日本語固有のキリスト教用語とみなせる…ハズ

そして何より、「マリア観音」という語そのものは〈日本語固有のキリスト教用語〉と考えるのが妥当なヤツなのではないかと思う。

マリア観音(マリアかんのん)とは、「1614年(慶長19年)に江戸幕府による禁教令が出されたのち、1873年(明治6年 )にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、およそ250年にわたって」[1]、主に江戸時代の禁教令によって弾圧を受けた隠れキリシタン(キリスト教徒)によって、カトリック信徒の信心の対象である聖母マリアに擬せられた観音菩薩像。キリシタンたちは表面上仏教徒であるように装い、中国または国内で作られた白磁製などの観音像を「ハンタマルヤ」と呼び、密かにこれを信仰の拠りどころとした。これらの像は一般的に「マリア観音」と呼ばれていた[1]。



ウィキペディア2025年2月閲覧

この言葉が生まれてきた経緯を含めると、「マリア観音」は日本語におけるキリスト教用語と考えられるし、翻訳しようとしても一言ではできない用語だと思われる。

カトリックの宗教指導者たちからの言及

ローマ教皇2代にわたって祝福

1981年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の長崎来訪に合わせ、親松さんは30センチ大のマリア像の習作を大使館を通して教皇に贈る。「日本のすべての名もなき殉教者のためにマリア像を完成させたい」と記した手紙を添えて。すると直接、教皇から祝福のメッセージが届いたのだ。ヨハネ・パウロ2世からの祝福はその後も2回、さらに後継教皇のベネディクト16世からも寄せられた。

((《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 Nippon.com)

前田万葉枢機卿からの励まし

5月30日、前田万葉枢機卿が原城聖マリア観音ホールを訪問されました。親交のある制作者 親松英治氏から、原城聖マリア観音像設置完了の連絡を受けての来館です。

枢機卿は、「観音像の出来栄えや原城跡を一望できる立地は想像以上に素晴らしい。この地が宗教の垣根を超えた新しい祈りの場になることを非常に嬉しく思う」と述べられました。また、マリア観音像の受け入れと寄付金集めに尽力している私たちを励ましてくださいました。

公式ウェブサイト「ローマ・カトリック教会 前田万葉 枢機卿より心温まる激励をいただきました」より

ってことで、「カトリック教会のプロジェクトとかではないけど、応援はしてるよ~」という感じなんだと認識。

そのほか反応

キリスト教徒っぽい方々の反応

(↑イク娘はカトリックではないけれど、限りなく心を寄せていると認識している)

芸術家たちの反応

宗教情報リサーチセンターからの言及を発見!

動画

塚田穂高先生がこの動画で解説されている内容、とても面白かったし勉強になりました。!

https://youtu.be/z8_uDWeQq0Q?si=Hy573mz0tRR8ITJA

神秘体験なきゃ作れないだろうなぁ…と思っていたら、あった。

この手の大作を造りあげるには、天啓的な体験があったんじゃないのかなぁ…

と思っていたら、インタビューにそれっぽい話を見つけることができた。

島原・天草一揆で、12万人もの幕府軍は原城を徹底的に破壊。3万7000人の一揆軍は全滅した。

原城跡を訪れた親松さんは、彼らを供養する施設や碑がないことに心を痛めた。カトリックの教義では、「日本二十六聖人」のように無抵抗のまま亡くなった信徒でないと殉教者とは見なされない。

「犠牲者の中には無抵抗だった女性や子供、お年寄りもたくさんいる。彼らの霊を慰める施設がないのはおかしい」──自らも敬虔なクリスチャンである親松さんは義憤にかられ、私財を投じ独力でマリア像の製作に着手する。イメージしたのは、禁教時代、隠れキリシタンらが聖母マリアになぞらえて崇拝した観音菩薩像(マリア観音)だった。

しばらくして、原城跡の発掘調査で大量の人骨が見つかった。親松さんは現地を訪ね、担当者から人骨のカケラを1片借り受ける。マッチ箱に収めてマリア像の胸部に置き、犠牲者を想いながら製作しようと思ったのだ。

ところがその夜、島原のホテルで親松さんは、明け方まで床が激しく揺れる幻覚に襲われる。「原城跡のおびただしい霊たちが『親松さん頼んだぞ!』と押しかけて来た」と確信し、絶対に作品を完成させる、と彼らに約束した。…

《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 Nippon.com)

この文章では「明け方まで床が激しく揺れる幻覚」としているが、『明け方まで』『床が激しく揺れる』のは、実話怪談の中ではけっこうしっかりした現象である。

実際に10メートル級の木造作品を作ってしまったというのが、親松さんの体験の信ぴょう性を裏付けている。

補足

最近、天草四郎まわりを調べるときが来てしまったので妙に詳しくなってしまったので言うが、立てこもった人たちのうち1万人くらいは幕府軍との本格的な戦闘が始まる前に逃げ出したりしていたらしい。

この戦で死んだ人が少なくなってよかった…のかどうかは浅学者なのでわからないのだが、とにかくこの原城聖マリア観音は、2万人と4000人への追悼、と思っている。どのみちすごい数字ではあるが。

▽調べていたこと

ということで、こういうことがあってしまうと、それは「あったんだから、外野がなに言っても仕方ないわなぁ」と思う。

むすび、そして私の得た天啓へ

インターネットで調べる限りだと、カトリック側からしてもほとんど好意的、あるいはさほど興味を持たれていないのかもしれない。

地域性が強い話題なので、それも仕方ないと思う。

で、まあ、これについて調べる過程で、私は私で天啓を得てしまったので、別のコラムでそれを書いていきたいと思う。

「原城聖マリア観音」世界最大級木造マリア像が長崎にできたらしい!~令和生まれの島原の乱慰霊活動~