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「呪いの詩編」109篇八訳対照~詩編四訳対照の向こうがわ~

詩編には「呪いの詩編」と整理されるものがある―――

と知ったのは2024年でしたでしょうか。「ブルターニュ死の伝承」という書籍に

コーンウォールでは、誰かに死んでもらいたいと思ったら、咎のある人が呪いを受けるように、一〇九詩編を唱える。(W.Bottrell,p.229)

(アナトール・ル=ブラーズ著,後藤澪子訳「ブルターニュ死の伝承」p.672,2009年,藤原書店)

と載っていたので、109篇ってどんなだっけ?と調べる過程で、詩編にそういうジャンルとして整理される文化があることを知ったのでした。

そんなこんなで、改めて「呪いの詩編」とされる35篇、69篇、139篇などを読み比べてみたのですが、ナルホド確かに、109篇はとりわけ殺意が高いと感じました。

なんやかんやあって、時代も距離も隔てたひとたちの多様な聖書的伝統のひとつに身を連ねつつ、現代日本人としてもこの味を嚙みしめてみたいと思ったので、「詩編109篇7訳対照」をコラムにまとめてみることにします。

ちなみに、この「〇訳対照」という取り組みは、日本聖書協会から出版された「詩編四訳対照」という書籍から受けたインスピレーションによります。

聖書協会共同訳にもたずさわられて、詩編四訳対照のプロモーション活動もされている「春日いづみ」先生は、

詩編の味わい方として

詩編とは賛美と感謝なんですけれども、魅力があるのは恨みとかね訴えたりね…!それから敵を滅ぼしてください…!みたいなことまで、聖書らしくないと思われる部分かもしれませんけれど、もうさまざまな感情が渦巻くことが人間にはありますから、それにすごく共鳴するし、ここにこういう風に書いてあるっていうのと「本当に同じ気持ちだわ!」って思いになることもしばしばです(00:05:00あたり~)

とおっしゃられています。このYouTubeを見て、呪いの詩編を取り上げて吟味することは詩編の味わい方――聖書の用い方のひとつとして、まったくありうべきことなんだなぁと励まされたので、このコラムを公開します。

呪いの詩編109詩編7節、七訳対照

詩編109篇は30節ありますが、すべて引用するとさすがに申請とかいろいろ大変なので、私がとくに「ここが一番味がする」と感じている7節を比べていきます。

口語訳

彼がさばかれるとき、彼を罪ある者とし、その祈を罪に変えてください。

聖書 口語訳:(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1954,1955

新共同訳

裁かれて、神に逆らう者とされますように。祈っても、罪に定められますように。

©︎共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

新改訳

彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。

聖書 新改訳 ©2003 新日本聖書刊行会

フランシスコ会訳(聖書-原文校訂による口語訳)

彼が裁かれるとき、有罪となり、その願いが罪とみなされるように。

「聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注」

聖書協会共同訳

裁きの時に、彼が悪しき者とされ/その祈りが罪となるように。

聖書 聖書協会共同訳:©︎日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 2018詩編/ 109編 007節

新改訳2017

彼がさばかれるとき 有罪が宣告され、彼の祈りが罪と見なされますように。

『聖書 新改訳2017』の場合: 聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

KJV(欽定訳)

When he shall be judged,let him be condemned: And let his prayer become sin.

雑感

いや、比べてみて一番ビックリしたのが…フランシスコ会訳聖書だけが明確に、6~19節を「」で括っていたことでした。注釈を読んでみると、どうもここを『悪人のことば』としてみなしている…説を採用してるみたいです。

本詩は、全詩編のうちでいちばん非キリスト教的なものとしてしばしば挙げられる。本詩全体が作者の言葉とみなされるのであれば、また、罪と罪人、を区別するわれわれの考え方――旧約時代ではこの区別はあまりされなかった――に従って判断するなら、このことはある程度真実であろう。しかし、今日では、ほとんどの学者が、6-19節を、悪人の言葉とみなしている。すなわち、義人の上に有罪の宣告とあらゆる災いを祈る悪人の言葉を、作者が引用したのである。そして、この呪いが自分を訴える悪人に振り向けられるようにと、20節(あるいは16-20節)で作者は祈る。(旧1491)

つまり、私は悪人の言葉のひとつを「一番味がする」と感じたということみたいです。

そもそも、私がここをこれを読むきっかけとなった「ブルターニュ死の伝承」では

自分に害をなした人に対して、残酷な死に方をするように望む者は、すでに魔術師とみなされる。(H.De Kerbeuzec,Reveu des traditions populaires,t.XXXVⅡ,p.139)

(アナトール・ル=ブラーズ著,後藤澪子訳「ブルターニュ死の伝承」p.672,2009年,藤原書店)

と言うことも並列して書かれていました。各書の引用もとまで辿っていくリソースはないので、コーンウォールでどういうカンジでこの習俗がとらえられていたのか、まっったくわからないです…。

フランシスコ会訳聖書以外の聖書は、この「」を記載していません。つまり、フランシスコ会訳聖書になじみのない人たちはフツーに「詩編の作者自身の祈りのことば」と解釈する人のほうが多いかと思います。

そうしたら、この箇所をコンニチの私たちが、兄弟姉妹に対する祈りとして用いるのは必然にもなってきそうな気がしますし、コーンウォールでもそうだったんじゃ…?という気もします(内容的には「同じ神を信じる人への呪い」であるのは、そうだと思うので)

個人的に、こういった「呪い」をキリスト教徒がキリスト教徒に対しても祈ることも神の前にありうべきこととされている―――という解釈と、それを地で行っていた可能性のある習俗の記録は、かなり慰め深くかんじたところではあるのですが。

どうなんでしょうね~…


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