教会HP制作・オンライン献金導入・礼拝動画にお困りの場合は(8/4)

「全ての命は神に創られた故に価値がある」は聖書にあるのかということを再考

スポンサーリンク

「全ての命は神に創られた故に価値がある」ことが明確にわかる聖書箇所をご存知であれば教えて…的なご質問があり、自分でも再考してみました。

じっさいには聖書に「コレ」といって出せる箇所があるワケではない、と認識

いのちなぜ大切? ~神の所有だから

それではさっそく一つ目です。「いのち,なぜ大切か?」聖書の中にはいのちの大切さを示す言葉は数え切れないほどありますが,今日は一箇所,創世記の1章26節の御言葉を取り上げて,なぜ,いのちが大切なのかを共に考えたいと願います。

「神は言われた。『我々にかたどり,我々に似せて,人を造ろう。そして海の魚,空の鳥,家畜,地の獣,地を這うものすべてを支配させよう』」


聖書によれば,私たち人間は神様にかたどって,つまり神様に似せて,また,神様の「かたち」に造られたのです。「かたち」と言いましても神は目に見えるお姿はお持ちではありません。ですからそれが外面的な形ではないのは明らかです。

(「聖書が示すいのちの尊厳」水谷潔)

ところで、キリスト教におきましては、人間の尊厳の根拠は、聖書のいたるところに求めることができますが、直接には、「人間が神の像」としてつくられたからという創世記一章二六節に求められるというのが、一般の理解だと思います。そして、造り主の救いの愛によって、人間は神に似せて作られたのであり、キリストの十字架と復活とによって、「一人ひとりが救いの対象とされ、小さなキリストとして天国に導かれるものであるからこそ、尊く、かつ神聖なものとして扱われなければならない」。これが、人間の尊厳の根拠であると考えるのです。

人生の目的奨励ー大谷實/同志社総長

…と言う感じで、牧師やキリスト教系学校の教育者たちが『生命の尊厳』みたいな話をする際に「コレ」といって提示している聖書箇所がないことから、『全ての命は神に創られた故に価値がある』的な観念というのは「聖書の一種の解釈によるもの」であると認識できます。(この度再確認しました)

しかし、実際に既存のキリスト教文化圏は聖書の記述から「Sanctity of Life(SOL)」という価値観を見出し、それによってつくられてきた歴史があることは限りなく了解可能なものであるということもまた我々は知識として知っていますし、上記に引用した著作物から読み取ることもできるかと思います。

ちょっと調べているうちに、次のようなものを見つけることができました。

「人間の命は神が所有しているものであるという考え」が導き出せるっぽい聖書箇所

 人間の命は神が所有しているものであるという考えもキリスト教の伝統の中ではしばしば挙げられる(「詩篇」24、「マタイ伝」18、23 ― 25)。
自殺の悪さについての哲学的な議論の調査(1)蝶名林 亮

▽詩編

ダビデの歌
1地と、それに満ちるもの、

世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

2主はその基を大海のうえにすえ、

大川のうえに定められた。

3主の山に登るべき者はだれか。

その聖所に立つべき者はだれか。

4手が清く、心のいさぎよい者、

その魂がむなしい事に望みをかけない者、

偽って誓わない者こそ、その人である。

5このような人は主から祝福をうけ、

その救の神から義をうける。

6これこそ主を慕う者のやから、

ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

7門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。

栄光の王がはいられる。

8栄光の王とはだれか。

強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

9門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。

栄光の王がはいられる。

10この栄光の王とはだれか。

万軍の主、これこそ栄光の王である。

https://www.bible.com/ja/bible/1820/PSA.24.%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3

▽マタイ福音書

23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。

https://www.bible.com/ja/bible/1820/MAT.18.%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3

 ミズーリ派ルーテル教会のポール・クラーク牧師(Paul M. Clark)は,1995 年1月の礼拝説教において,エレミヤ書1章5節(後述)に言及し,尊厳(dignity)の意味について語っている。原語であるラテン語のdignitasには,「仕事」「功績」といった意味があることに着目し,人間は神の「仕事」により存在するゆえに尊厳を持つと説明する。尊厳の根拠は,我々が何をするか(できるか)ということとは無関係であるという極めてルター派的な説明がなされている。しかし同時に,「もし生命が,変化の連続の中におかれているどろどろした太古の海から進化論的に発生したのなら,人命を守ることは重要ではないだろう」という聖書原理主義的主張が顔をのぞかせる。(Stallsworth,1997,43-48)
生命主義とキリスト教–米国の中絶論争に学ぶ―田島 靖則

▽エレミヤ書

わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。

(新共同訳)

カトリックの憲章

 1987年に公表されたローマ・カトリック教会の『生命のはじまりに関する教書』は,奇しくも現在のローマ教皇ベネディクト16世が,教皇庁教理省長官時代に手がけた文書である。その第一章では,「人間は,その存在の最初の瞬間から人間として尊重されるべきである」と宣言され,第二バチカン公会議の決定である『現代世界憲章』にある文言,「生命は受胎されたときから最高の配慮をもって守らなければならない。人工中絶や赤子殺しはもっとも恐ろしい犯罪である」を引用し,いわゆる受精時における「霊魂の即時賦与」について繰り返し述べている。また同時に,生命倫理における主要な議論の一つである,「人格の獲得時期」についての議論に加えて,「生存可能性」についての議論そのものをもはっきりと否定している。(教皇庁教理省,1987)

生命主義とキリスト教–米国の中絶論争に学ぶ―田島 靖則

これは「人工妊娠中絶」に関する話題の中でとりあげられていますね。



数学の塾をされている方が、ある生徒さんとの初回授業で「直線とは何かを定義するのに1時間かかってしまった」という話をされているのを聞いたことがありますが、『生命倫理』みたいな話も「生命とは何か」に始まって「価値とは何か」みたいなところを明確にクリアするところからやらないと議論もできないんだろうなぁ…と、こういう話をしようと思うとそういうことを考えさせられます。

(だから「複雑なことを考えるのは専門家に任しとけばいいんだよ」と言われたことがあり、そらそうだなと思っている自分もいますが)

時代の議論は「SOLとQOL」みたいな複雑な問題スライドしているのだなぁという印象

時代の議論というのは「安楽死」はどのラインからであるなら認められるべきなのか…とか、人工妊娠中絶手術はどのラインから認められるべきなのか…とか(胎児はどの時点で人間か…みたいな議論)非常に難しいところになっているのだなぁ…という凡庸な意見を持つしかないことがわかりました。

(他人事みたいに書いていますが、安楽死をめぐる法案も人工妊娠中絶をめぐる法案も、個人的にはかなり当事者意識を持っている状態であり、非常に興味深く思っています。)

試しにカント(日本で人気で、「自己責任」風潮の萌芽になっている、と噂の哲学者ということでの意見などを論文からひも解いてみようと思ったのですが、もうこの時点で木っ端みじんでした(複雑だという事は分かった)。

カントの説とSOL説とのあいだにはいくつかの重要な点で相違がある。まず、生命の価値を宗教によって根拠づけることをめぐって相違がみられる「神聖さ」という用語は言語的にその起源を宗教のなかにもつ。カントはすでに述べたように(Ⅳ-2一④)、生命の価値を純粋に道徳的に根拠づけ、宗教的根拠づけを批判している。カントは人間の生命を、「自分に委託された神聖なもの」(VE.190/290頁)とみなすが、生命の神聖さを宗教的に説明していない。SOL説のなかには、生命の「神聖さ」の説明のために宗教を根拠とするものだけでなく、この用語を非宗教的に意味に用いるものもあるが、後者もカントの見解には一致しない。彼は生命の価値を人格(人間性)の尊厳との関係で説明するのであり。生命がそれ自体での神聖さや尊厳をもつとはみなしていない(Ⅳ-5-

jaカント実践哲学の生命倫理学的射程 (下) : 人格・生命・身体をめぐって高田, 純

しかし、キリスト教徒の中での意見のグラデーションというものは、「思わぬタイミングで自身になぐさめを与える」…ということも短いキリスト教徒人生の中でも感じるところではあります。

主よ、憐れみ給え。