「著名人」の定義…Wikipediaページがある方々、あるいは商業出版からのピックアップ。
目次
著名人編
知里幸恵 (1903- 1922年 アイヌ語研究者/プロテスタント)
(五月十七日、知里幸恵が両親に宛てた手紙より)
汽車の中では都合が悪いから今夜は私の家へ、と、ニシパが仰って下さいました。かくて私は夢にも思はなかった札幌の駅で下車いたしました。其の日は手紙を読んだり書いて投函しに走ったりして暮れました。丁寧に診て戴き、御祈りして戴いて、懇な御もてなしを受け、其の夜は丸山コリミセと云ふコックのばあさんのお部屋でお宿を借りる事になりました。砂糖湯を飲んでねると直ぐからそのおばあさんは心地よげにすやすやすやと眠りました。
ところが、敷いて貰ったお床の上に疲れたからだを横たえた私は、
自分の呼吸をかぞえたり心臓の鼓動を数えたりしても、
どうしても眠れないのです。
時計のチクタクばかり耳について眼はいよいよさえるばかり、
時々おばあさんがゴホゴホとせき入る時は、
起してお話でもしようか、
と思うたりいたしました。
外には月が出ているのでしょうが、
おへやの中は真っ暗闇、
それでもそこにぶら下っている電燈の白い笠を見つめている中、
いつかうとうととまどろむだのでありました。
ところが私の後の方で、
幸恵さん幸恵さん、
ときれいな声がきこえますので、
そちらをむき直って見たところが、
七つか八つの男の子が、
あらい絣の着物をきて、
かわゆい顔に笑くぼをつくってニッコリしているので、
私はびっくり、誰方?
彼は答へました。
あのね、あたしはワルデンガーラの子ですよ、と。
おやそううですか、とは申しましたが、
ハーテな、ワルデンならば、
今朝、私が来る時にうまやへよってさよならをした馬なのに、
それに種馬の資格もないと云う話なのに、
どうしてこんなきれいな子を持っているのか、
と、首をひねって考えました。
これはおかしい、と今一度その子を見なおすと、コハ如何に。
彼の小童は身体はもとのわらべながら頭はいかにもワルデンの如く、
しかも大きな其の眼光は爛々と輝いて私の全身を射るが如く、
額の星は大きな穴のやうにくぼんで、
真赤な口をあいて今にも私を飲まんずありさま、
ヒヤア、これは大変、逃げんとすれば、
両足は棒のやうになって一歩も動かず、助けを求めんには声が出ない。
そうこうする中にかのばけものは一歩一歩近寄るかと思えば、反対に後退りをして、後の柱にドンとつきあたった其の音でハッと気がついたら、あたりはまっくら、これは不思議とよく見れば、私は相不変コックさんのそばでねていたのでした。
試に足を動かして見ましたら幸に足は自由でした。
耳をすますと何処からとも知れず、
犬の悲しげな遠ぼえがきこえていました。
枕もとの手拭で汗をふいてもう一度ねむろうと思ひましたが、
どうしてもねつかれず、
其の中に時計はゴーンゴーンと二時を報じました。
何事も考えるまいと思うても、
種々な想は水のように昔にわき今に流れて其のつくるところを知りませんでした。
かくてとうとう夜は明けて、
四時半になるとコックさんと一しょに床をはなれました。
ほんとうにこんなつまらぬ夢の為に一夜をねむらずにすごしてしまったのが馬鹿らしくてなりませんでした。
ふしぎに声はスラスラと出ますので、
神様の大いなる御力と、深く深く感謝して再びニシパ(『紳士・旦那・金持ち』の意のアイヌ語。ここでは英国宣教師ジョン・バチェラーのこと。)に祈りをして戴き、ニシパにもカッケマッ(『淑女』の意のアイヌ語。ここではバチェラーの奥方のことと思われる)にも深く御恩を謝して御宅を立出でたのは六時頃でしたでせう。… … …
(現代かなづかい変更/改行は筆者による)
遠藤周作(1923-1996年/作家/カトリック)
遠藤周作が作家仲間の三浦朱門と一緒に体験した心霊現象の話がありました。(三浦朱門はまだカトリック信徒として洗礼を受けてないころ?)
二人が一緒に心霊現象の起こる部屋から逃げてきた際に、三浦が遠藤に「お前カトリックやろ。こういう時十字切ったりせえへんのか」と聞くと、遠藤が「あほか、んなもん効くか」と返すのがおもろかったです。
2人とも、日本にいる超自然的(?)存在と『外国の神』に縁はないと考えている感じがうかがえて。
親松英治 氏(1934年- 彫刻家/カトリック)
ウィキペディアに個別ページはないけれど「原城聖マリア観音」関連のメディアへの取り上げられ方的に著名枠に入れていいと判断しました。
島原・天草一揆で、12万人もの幕府軍は原城を徹底的に破壊。3万7000人の一揆軍は全滅した。
原城跡を訪れた親松さんは、彼らを供養する施設や碑がないことに心を痛めた。カトリックの教義では、「日本二十六聖人」のように無抵抗のまま亡くなった信徒でないと殉教者とは見なされない。
「犠牲者の中には無抵抗だった女性や子供、お年寄りもたくさんいる。彼らの霊を慰める施設がないのはおかしい」──自らも敬虔なクリスチャンである親松さんは義憤にかられ、私財を投じ独力でマリア像の製作に着手する。イメージしたのは、禁教時代、隠れキリシタンらが聖母マリアになぞらえて崇拝した観音菩薩像(マリア観音)だった。
しばらくして、原城跡の発掘調査で大量の人骨が見つかった。親松さんは現地を訪ね、担当者から人骨のカケラを1片借り受ける。マッチ箱に収めてマリア像の胸部に置き、犠牲者を想いながら製作しようと思ったのだ。
ところがその夜、島原のホテルで親松さんは、明け方まで床が激しく揺れる幻覚に襲われる。「原城跡のおびただしい霊たちが『親松さん頼んだぞ!』と押しかけて来た」と確信し、絶対に作品を完成させる、と彼らに約束した。…
(《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 Nippon.com)
「夢でうなされただけでしょ?」「主観でしょ?」と思う人もいるだろうが、それでこのレベルの彫刻を造り上げてしまうんだからそれはもう実話怪談の必要条件を満たしていると思う…。
清涼院流水 氏(1974年-/作家/カトリック)
カトリックの洗礼を受ける前より『心霊体験』は無数にしている。(『聖霊』の存在も違和感なく信じられたのはそれに起因するのではないかと推察されています。)
『幽霊』の解釈が分かれることと『聖霊』の解釈が分かれることのシンクロについて述べる氏。
「悪霊にもランクがあって、その辺にいるやつは怖くない。強力なヤツは怖い。」
11:19~ 怖い話をしはじめようとする流水氏に突っ込むMARO氏
流水氏の知り合い歴史小説家、神社に行って刀傷が背中に付く。
大石健一氏 (?/茨木春日丘教会-『光の教会』牧師/プロテスタント)
ウィキペディアの個別ページはないけど、教会のページがあってそこに言及されているので掲載。(2024年7月14日時点)
安藤忠雄氏の設計で有名な「光の教会(茨木春日丘教会)」の牧師の語る実話怪談。大学の授業(宗教学?)の一コマ?学生に語っているのでしょうか?興味深いです。
「光の教会」で見かけた、白い服の女性。
信徒でも見学者でもないような所作で敷地内に入り、見に行ったらいなくなっていた。
(→参考Youtubeを非公開にされたのでリンクはナシです。また語ってくださる時を正座待機!)
京都での学生時代の実体験。
(→参考Youtubeを非公開にされたのでリンクはナシです。また語ってくださる時を正座待機!)
【コメントで実話怪談系を投稿されている理由をおたずねしたら、以下のようなお返事いただきました】
いつかこのテーマで動画にしたいと考えていますが、複雑な理由もあって、怪談話系の伝承は、古代時代以来、キリスト教圏ではかなり少ない傾向にあります。現代でも、カトリックや正教では、エクソシストという形で霊は取り扱われていますが、プロテスタントでは、基本的には不謹慎系として見られることが殆どのように感じます。
昔、スリランカの元僧侶に、自宅に起こる心霊現象を診断してほしいと頼まれ、「除霊も霊視もできないし、なんなら別に信じてないからね」と返答すると、「そりゃ先生は、そういうの押し返す人だから見ないと思うけど、だからこそ、来るだけでいいから来て」と言われ、ともかくも出向いて帰宅した夜、霊が挨拶に来て、「まじかよ」となって以来、そうしたニーズがある以上、タブーであっても自分は道を切り開こうかと思い、ボチボチやり始めた次第です。
大学では、呪術、魔術、穢れなどの概念が好きで、時々扱う流れで、受講生に心霊体験をアンケートしています。霊を見た人の統計的な率は、0.5%以下。ただ、不思議な体験は、数パーセント台です。
商業出版からのピックアップ
マリア像の涙と不思議なお告げ
※タイトルママ
秋田県の怪談として紹介。
クリスマス会をある修道院で過ごしていた女の子2人が、そこにあった木造マリア像が涙を流しているように見えることに気づく。
ほかの人々も気づきはじめ、修道院がパニックになる中、女の子の頭の中に美しい女性の声が響いた。
それはとぎれとぎれであるが「ユキヤマへイッテハイケナイ」と告げているように聞こえた。
スキー合宿を控えていた女の子は、それをきっかけに合宿に行くのをやめる。
後日、その雪山で雪崩が起きたことを知る。合宿へ行った女の子の友人は軽傷ですんだが、何人かの人は命を落としたという。
女の子はマリア像のお告げだったのかもしれないと思った。
(参考:並木伸一郎 著「3分後にゾッとする話 47都道府県の怖い話」pp.20-23,理論社,2018年)
この話で紹介されているマリア像がコレかはわからないが「秋田・涙を流す・木造マリア像」というと、この『カトリック聖体奉仕会修道院』が有名なようだ。
熊本「臼内切(千人塚)」の奇譚
※収録タイトル「ある丘の上で」
仕事で「人工物が入り込んでない熊本の自然の風景」を撮影しなくならなくなった男性。
山奥をジープで闇雲に走っていると、ある丘の上に着く。
そこは漠然とした気味悪さのある場所だったので、車を発進させようとするが、エンジンがかからない。
仕方なく車を置いてもう少し先の丘にのぼってみると、丘のあちこちにはこんもりとした土盛りがあることに気づく。
とたんに、男性の足首に激痛が走る。
どうにかふもとに戻った男性が、農作業をしている老女をみかけたので聞いてみると、すごい剣幕で怒られる。
「あそこは、ウスネギリの〝穴ひとつ”ったい。昔、あの奥に隠れ切支丹が住んじょった村があった。ばってん、全員捕まって斬り殺されての。その死んだモンが埋まっとんのが」
老女は、男性にこれ以上追求させまいという様子で「もうせんよ(止めなさい)、死ぬよ」と言った。
(参考:黒木あるじ「全国怪談トリヨセ」pp.193-197,平成26年,KADOKAWA)
臼内切(うすねぎり)について:
かつて、ここらで確かにこじんまりと人びとの営みが行われていたのである。ところが、嘉永6年(1853)、細川藩の派遣した兵員が夜明けとともに集落を包囲し、10数戸の家々に踏み込んだ。およそ5、60人が丘の上で処刑された。伝説によれば、村人たちは隠れキリシタンだった。はたして本当にそうであったのか謎が残るが、ただ、村人が急襲を受け、殺されたということは疑えない。丘のあちこちに小さな盛り上がりがあって、殺された人たちが埋められた塚なのだという。この臼内切のことは石牟礼道子さんも『西南役伝説』という作品の中で取り上げているが、しかし事件の謎そのものに迫って深く探求している点では河津武俊氏の『肥後細川藩幕末秘聞』を置いて他には類書がない。
(引用:前山 光則「第288回 臼内切の丘へ」図書出版弦書房ウェブサイトより,2017/2/28最終更新)
南蛮井戸のある寺ちかく「追いかけてきて通り過ぎていく鳴き声」
※収録タイトル「すすりなき」
長崎県西坂町の本蓮寺近くを自転車で通りかかった体験者が、すすりなきを聞いた。
自転車に乗っていてもその声が追いかけてくることに気づいて止まると、声だけ通り過ぎていった。
後日、同級生にこの話をすると「あそこのお寺は、南蛮井戸があるからなぁ」と言われた。
(参考:黒木あるじ「全国怪談トリヨセ」pp.207-209,平成26年,KADOKAWA)
1620年、大村の本経寺の僧・本瑞院日恵上人により開かれた日蓮宗の寺院です。
この地には、日本で最初のハンセン病の病院「サンラザロ病院」と「サンジョアン・バウチスタ教会」がありました。しかし、キリシタン禁止令により破壊され、その跡地に本蓮寺が建立されました。
敷地内には、南蛮井戸跡があり、教会時代の名残をとどめています。
(引用:https://www.at-nagasaki.jp/spot/61007)
南蛮井戸の怪談…豊臣秀吉の禁教令によって、長崎のキリスト教会は、役人の手によって次々と取り壊された。サン・ジョアン・バウチスタ教会も取り壊されようというとき、信者たちは庭にあった井戸に、マリア像や十字架、金や銀の入った箱などを投げ入れ、ある者は自らこの井戸に飛び込んだり、またある者は役人に投げ込まれたりした。
その後、教会の跡地に建てられたのが、現在の日蓮宗 本蓮寺である。教会時代の井戸が庭に残っていたが、井戸の傍の部屋では不思議なことが起こるようになった。この部屋で寝ると、人々のざわめき声や泣き叫ぶ声が聞こえ、朝には頭と足の位置が逆になっているほど寝苦しく、「寝返りの間」、「枕返しの間」と呼ばれて噂になった。
あるとき、日親というお坊さんがこの噂を聞きつけこの部屋に泊まると、部屋の入口にあったついたてに(杉戸)に描かれていた老人が抜け出して来て、異様に目を光らせながら歩いてくるので、日親は短刀で老人の目をくり抜いた。老人は消えたが、それ以来、日親は毎晩うなされ続け、ついに死んでしまう。
この絵は、日本初の西洋画家 山田右衛門作の描いたものだったという。この「南蛮杉戸」は寺の名物となったが、後の原爆によって失われる。(参考:「長崎の昔ばなし 第2集」竹下隆文堂,pp.8-10)
大阪城の石垣の行方
※タイトルママ
これから読みます。
この書籍はさまざまな怪談作家・怪談師の方の「日本のお城にまつわる怪談集」で、そこに一話(?)連ねられているようです。
世界宗教と土着の民間信仰の混ざり方、死後の世界が研究テーマ。京都大学などで教えている。(引用:さむ占オカルト研究所)
※「さむ」氏はツイキャスの配信などでキリスト教徒であることを明言されています。
YouTubeからのピックアップ
「悪魔」に狙われたという霊能力者系の方の怪談
現代日本人で、キリスト教信仰に帰依しているワケではないけれど一般人が持たない力を持つ人が語る「悪魔」の影響の話。非人間の存在論ひとまとめにできるものではない可能性が、私自身が考えている現状の観念に近いと思っています。
解釈しかねる部分があるのも実話怪談然としていて、なかなか好きなタイプのお話だと思いました。
こういう話を聴くと、「宗教的観念が薄れている現代人も、たまには宗教儀式をしてみようかな」という気持ちが高まるんじゃないかというのが私の体感です。
キリスト教徒ならば「祈りの力を信じられなくなる」みたいな時に、こういう『日本の霊能力者の実録』みたいなのはけっこう効くんじゃないか…とかも考えています(荒療治だという人はいるでしょうけど)。
日本の教会で起きた悪魔憑きの話
福音派系の神学校(4年生/インターンシップなどあり)を卒業され、プロテスタントとして洗礼も受けられている怪シャドー氏が語る怪談。
日本のできごとではありつつ、洋画の話を聞いているかのような感じになるのは、やっぱり悪魔っちゅーモンの行動様式はそれはそれであるんやろな…という感じがあって激アツ。
でも怪シャドー氏自身は現状ホラーは話をするよりも人にポジティブなパワーを与えるお仕事が本業のようではあるので、ホラー系の話ばかりフューチャーしてもありがたくないカモ…。
カトリックの方が霊感持ちになってしまった体験談
語り手本人は「この体験から意味を見出そうとする」という、限りなく有神論的世界観から生まれがちな解釈をしているご様子。スタジオにいる人たちがそれにさほど注意を払わないので、“やっぱり日本の怪談にそういう要素は求められてないんだな”と思わされました。
ただ、こういう時に、島田秀平氏はそれに近い解釈の言語化を好みそうなイメージもあります。ポジティブに物事を解釈したいという性格なんだろうな…と思うわけです。
日本の怪談界隈を牽引する存在が、アブラハム宗教信者自身の体験とその解釈に同調できそうな世界観なのは、怪談好きキリスト教徒の私からすると慰め…案件だと思います。
アルゼンチンはブエノスアイレスの教会で起きた聖体変化事件
1:11:38 ~変容する物質(角由紀子さんによる語り)
ブエノスアイレスの教会で起きた御聖体が肉に変質するという事件。
この方が語るとちょっと信ぴょう性低めに感じてしまうのは、語り口が軽微なのと、たぶん私怨もあると思います…。
徳島の「日ユ同祖論」と申しますか「剣山アークソロモンの秘宝」と申しますか、みたいな件にコミットしている寺の住職を丁寧に取り上げているのを認識しています。そして剣山の修験で誠実な信仰に帰依されてる友人が、そういう人たちが剣山に雑にコミットしてくるのを非常に苦々しく思っているので……。やっぱり近いほうに心が寄っちゃう。もちろん角さんおひとりが戦犯なのではないです。
だから、少し前の私なら「あーはいはい、シンジラレンシンジラレン」で流していたかもなのですが、これを聞いたとき、日本の秋田県であった「聖体奉仕会の聖母マリア像涙流し事件」の記録を読んだちょうどあとくらいだったので…
「あるもんなんだなー…」と思いました。
秋田の聖母マリア像の記録はインターネットで読めます。
ギャル霊媒師の行った悪魔祓いの話
1:24:40 ~悪魔祓い(飯塚唯さんによる語り)
この方に憑依していたのがキリスト教世界が「悪魔」と呼びならわしてきた存在なのかはわかりませんが、「エクソシストで表現されるのと同じような行動様式をとった」というのはハッキリ語られているのでピックアップ。
群馬の隠れキリシタン集落(?)につながっていくかもな話
この話はYouTube上でほぼリアルタイムに追えているので、進化しててちょっと感動しています。
でも隠れキリシタンがヘブライ語使っていたかというとどうなんだろう?ラテン語じゃなくて?
十字模様じたいはキリスト教の文脈関係なくお守り的な感じに用いられている習俗は日本にもちょいなちょいなあると認識しているので、どうなんだろうな~…
この先どういう話に展開していくのか…見守っていきたいと思います。
キリスト教会での「怪談説教」開催を期待して待機!
私は『第〇日曜礼拝の説教は実話怪談風味にしまぁす』とかいう教会があったら、多くの日本人(といっても「怪談好きな日本人」という属性の横断ではあろうが)の耳目を集めるのではないかと想像しています。
少なくとも私だったら大注目します。
三木大雲師の「怪談説法」と同じやり方、というだけの話ではありますが。それが参考になると感じる人もいるでしょうし、かえってやらない理由にもなったりするのかもしれませんが。
しかしながら、私の伴侶などは本当に怪談が苦手らしく、リアルの場でそれをされると参ってしまう信徒さんもいるだろうとは思うので、
そのへんの配慮とか工夫のことを考えると、現状多く礼拝説教の場ではむずかしいのかなぁと思いますが、まあ工夫のしようはいくらでもあると思います。
ホンマに教会に来たことない人を招くつもりのある「伝道集会」ならこれくらいのことは開催できるとは思うんですけどどうなんでしょう。あー…ホンマに教会に来たことない人招くつもりないトコがほとんどだからいいのか。失礼しました。
ちなみに私自身は「宗教指導者に霊感とかいうシロモノはないほうが徳が高い」という説を現状採用してますが、実話怪談を語るってことは語る人自身の体験じゃなくてもいいのでこのへん矛盾はしないです。
あとコレ読みたい
英国古典ホラーの正当なる後継者、エドムンド・ジル・スウェイン。本邦初訳の短編集!! 深夜の足音、動くステンドグラス、目に見えぬ通り魔、鏡の中の執事……。英国の異郷〈フェンズ〉地方で起きる数々の怪奇現象に、ローランド・バッチェル牧師が挑む! 英国怪奇小説の巨匠、M・R・ジェイムズの同窓生にして一番弟子、そして英国国教会牧師という異色の経歴の持ち主、エドムンド・ジル・スウェインによる唯一の怪奇談集、本邦初登場!!
(Amazon 概要欄より)