國學院大學で教鞭をとっておられる藤本頼生先生の「現代「神道」講座 寛容と共生のこころ」という書籍を読んだ。
そして、勉強になったことと、いくつか疑問に思ったことが出てきたので、ちょっとばかりまとめてみたいと思う。例によってド素人の戯言で占められているので、何かの縁でこのページを開いた方は…話半分に読んでいただければと思う。
目次
前置き:これまでに読んだ神道学系の書籍…
羅列できる時点でどシロウトなのであるが、「勉強しようという気持ちはある」という意気込みの提示だと思っていただければ幸いである…。(ちなみに「読めている」とは言ってない)
勉強になった事…は無数にある。なぜなら私は素人だから
当方はド素人なので、勉強になったことは言語化できないほどにある。ということで、ここでは私が特に興味深く思ったトピックを紹介してみたいと思う。
巻末の「Q&A 神道の基礎知識」だけでも読めたらいいな…と思っていたが、そこも大変勉強になったのと同時に、そのほかに興味深く思ったくだりを引用してみたいと思う。
櫻井教授は(中略)神道は日常性の宗教であり、その生活態度は「一つの教えや唯一の神、あるいは教祖から与えられる言葉を鍵としてそれを開くのではなく、すでに開けられている箱の奥に秘められた共有の価値を見出していく営み」であると述べている。この一文の初出は平成七年だが、私はこの言葉に出会ったときに大きな感銘を受けた。
p.20
自然の事物を神として祀ることは、神道にとって特別なことではない。自然崇拝や祖先崇拝などが相まって神社神道の信仰を築き上げてきたこともあり、自然崇拝だけをもって神社や日本の神の本質を語ることはできない。
pp.126-127
しかしながら、日本固有の基層文化である神道の神話や儀礼、信仰を基に神道の自然観を考え、そこから未来を生きる人々が持続可能な社会を求めて自然と共生していくヒント、生活の知恵を見出すことができるのではないかと思う。
「御神酒あがらぬ神はなし」といわれるように、各神社では日々の際しにおいて「神饌」と呼ばれる神に奉る食事に、米や餅とともに、米を用いて醸造した酒を必ず供える。酒がなくては、日本の神祭りは始まらないといってもよいほどだ。
p.163
神を求める心は真心を込めた祈りがまず以って一番であり、神の御加護は心を正直にすることが根本であるとしたが、正直であること、清浄であることはまさに神道にとって大事な考え方のひとつであるといえよう。
pp.230-231
神道の信仰の心得というほどのものではないかもしれないが、日本の神々に接する上での考え方の一つとして、まさに「清く明るく直しき真心」を持つことは大事なことであり、人が活力を持ち、生き生きと日々の暮らしを過ごしていく上でも大切にしなければならないことであるといえよう。
p-231
↓先生の名前で検索して出てきたこちらの動画も拝見しました。
疑問に思った事
今からここに疑問に思ったことを挙げていく。とはいえ、全部「新聞コラムを集めた書籍」だから仕方ナシと言われればそれまでである。はい…。
「民間伝承を漁るのが趣味の現代日本人」としての疑問【その①夜刀神伝承】
夜刀神の伝承を「共生の形」として提示されると…現代人的な感覚としてはムズイかも…
一方で、『常陸国風土記』の行方郡の段には、荒ぶる神を恐れ、慰めるのではなくうまく共存しようという動きも伝えられている。(中略※)
p.27
以後、人々と神との境界を決めて共存したというものだ。人々は夜刀神を追い払ったわけだが、神の祟りがあったという記述はない。自然と人との関係、共生の在り方を考える場合、この夜刀神の伝承をいかに考えるか、非常に興味深い。
正直、夜刀神の伝承なんかを「うまく共存」として提示したうえで、それを「寛容の精神」のひとつとして読むのは…現代日本人には難しい方も多いのではないだろうか…と思った。(現存する社とその伝承に関してなので言葉を選んだという背景はあるのだろうけれど…)
この書籍では、言及はあるものの深堀はせず、だ。これが「宗教学」と「文化人類学」「民俗学」的な分野の違いなのだろうか?(素人だからわからん…)
そう、素人だから、ここを深堀りしないのであれば「〇〇の研究をあたられたし」みたいな動線をひとこと添えてほしいなぁ…と思うのである。
「民間伝承を漁るのが趣味の現代日本人」としての疑問【その②上げ馬神事】
「上げ馬神事」についての言及…は、ない。了解です。
第二十一章にて「日本の神々と人と馬との関係」という章が設けられているけれど、2023年にけっこう話題になった印象がある三重県多度大社の「上げ馬神事」については言及がないのか、と思った。
「変えられることと変えられないことの見極めって難しいよな…」と個人的に思った最新の例だったので、もし言及があるなら興味深く読んだところであるが、この書籍には言及がなかった。
「現代日本人キリスト教徒」としての疑問
「キリスト教であれば教会があって信徒が成り立つが、神社はそうではない」…と言われると…どうかな…
キリスト教であれば教会があって信徒が成り立つが、神社の場合は全く逆で氏子や崇敬者があって神社が形成されるということである。
p.209-210
もちろん「キリスト教」というののは世界三大宗教と呼ばれるシロモノであり、その信仰の実践方法には千姿万態ある…と私は認識している。同じ地域でも時代によって変遷があるはずだ。(っていうか「地域」に『一定の民族』が根付いていると考えることはできないところが多いのでは…?これも無学の者だから知らないんですけど…)
だから、「教会があって信徒が成り立つキリスト教」もあるかもしれない。
しかしながらこの物言いに関しては、この書籍が紡がれたのと同じ舞台である「現代日本」においては『違う』と言える。からこそ、強めに否定してもいいじゃない?と思ってしまった。
現代日本人キリスト教徒・プロテスタントとして目に見える・読める・聞ける範囲で、そうではないことは明白なので、どうしたらいいのか。これは「昭和平成令和における日本のキリスト教(プロテスタント)のヴァナキュラー」として何等かの形でまとめておかないと後悔するわよ、という、日本の神々からのお声かけなのかもしれない。
そう、キリスト教が「教会」という日本語を使うとき、それが何を指しているのかは文脈においてしか判断できないと思う。建造物のことを指すときもあるし共同体のことを指すこともある…。
ちなみに…「カトリック」においては、『教会』ありきと見做されることも仕方ないかもしれない…とは思ったものの、教会法によると「司祭がいても信者が1人もいなかったらミサを執り行ってはならない」(※)らしい。
もちろん法解釈というのは往々にして割れるものだし、「信徒ナシに成立させようとしたキリスト教共同体(教会)があるからこそそういう法律が生まれたのでは?」と考えることもできるかもしれない。
しかし、ここではいずれにせよ「どの時代の・どの地域のキリスト教」なのかを明確にしないまま「キリスト教であれば教会があって信徒が成り立つが、神道は違う」と比較の材料にされているので…
やっぱり『國學院大學の先生が書いた本にこう書かれてるんだから、キリスト教はそうなんだ』と考える人のほうが多いだろうことを想像すると、ちょっと強めに否定したくなってしまう。
(※)2024年4月21日夕ミサにて、並木神父の話から。追って出典など併記できたらいいな(希望)
「民間伝承を漁るのが好きな現代日本人キリスト教徒」としての疑問
「このお守りとこのお守りは神さまがけんかするからよくないと聞くがどうか?」という日本の方々の語りを否定するのに一神教を引き合いに出すのは…説得になってないのでは…?
神社は寛容性を持つ宗教なので、人々が自分の都合で特別なご利益を求め、その機能を持つ神へとお参りしても、神が特段怒ったりすることはない。よく、「お守りをたくさん持って大丈夫だろうか?」「このお守りとこのお守りは神さまがけんかするからよくないと聞くがどうか?」などと尋ねられることがあるが、私は全く問題ないと説いている。絶対的な神を信じる一神教の世界では信じられないかもしれないが、一定の寛容さがあるのが日本の神社、神道なのである。
p.47
「このお守りとこのお守りは神さまがけんかするからよくないと聞くがどうか?」といった『語り』を生成する人たちについて、私も少しばかり覚えがある。
私が直近で見聞きしたのは、松谷みよ子氏が「現代民話」と称したもの(※)と同一と考えることができるであろう『実話怪談(怪談実話)』を語る人々、およびその周辺的ひとびとから語られている場面である。
(※)「現代民話考」
今、私が思い浮かぶ例はコチラであるが、この動画での語られ方を見る限り、「スピリチュアル界隈」で語られるお話だと認識してよいのではないだろうか。現在の私の手持ちの知識ではその「スピリチュアル界隈」における語られ方の例を探してくる・あるいはそれに纏わる研究を引いてくることは…できない…すみません…。
とはいえ、こういった方々だってほかならぬ市井を生きる日本人であり、日本におけるアブラハム宗教の存在感の薄さを考えると、『一神教じゃないんだから大丈夫』という論法は良い説得方法ではないのでは…?と思うのである。
(藤本先生がご利益に応じて氏神さま以外への神社にお参りすることに肯定的なのはこちらの動画からもうかがえたのでそれは了解しました。)
少なくとも、こういった語りを生成しているのは現代日本人でありつつ「神社にコミットしている/したいと願っている層」なのであるからして、その語りをもうすこし手厚く受け止め…ない…の…か……?と思ったのである。(ないなら「ない」で良いのであるが)
ちなみに…民間伝承を漁るのが趣味の現代日本人キリスト教徒としては、キリスト教は(歴史的に見れば)拝一神教としての性格を持ちながら混合し・変化し・分離し・分割して世界に拡がっていったのだと認識している…。(←この表現がどれくらい適切なのかは不明。ユダヤ教は拝一神教としての性格を有し、そこから唯一神教として変化していったと見なされていることは了解している。その後発であるキリスト教が宗教学的にどのような表現を用いられるのかは、現在の私はわかっていない。しかしながら、)たとえ現代のプロテスタントがそういうのから脱却しようとしていたとしても、歴史的にはそうであることは否定できない…という立場をとっている。(これは私が「さいきん民間伝承を漁るのが趣味になった理由」ともつながっている…と思う)
要するに、私は「キリスト教」は、天使・聖人といった「機能神的存在」への祈りとともに発展してきた宗教、だと思っている。キリスト教は「一神教」のなかでもそれなりのシェアを占めているワケなので…「絶対的な神を信じる一神教の世界では信じられないかもしれないが」(※)という表現は…うーん。
(※)これは学派的な話になるのかもしれないが「一神教/多神教」という分類用語は古いと聞いたことがある。「古い、が、依然として使われてはいる」という状況にあるのも聞いたことがある。新聞コラムだから、先生はあえて一般に利用されている名詞を使ったのだろうと思ってはいる。
それはそれとして「あの天使とこの天使は仲が悪い」「あの守護聖人の教会とこの守護聖人の教会をハシゴ巡礼したらこんな嫌なことが起きた」みたいな話は民間伝承の中であるかもしれないので、今後課題として持ちつつ民間伝承を漁っていきたい所存である。現時点ではあんまりおぼえがない。「民間伝承レベルでみたらフランス(カトリック文化圏)と日本、超似てます」と述べる比較民俗学の書籍は読んだことがある。(樋口敦著「妖怪・神・異郷 日本・韓国・フランスの民話と民俗」p.177)
雑感まとめようとしたら自語りになってしまった…自メディアだからユルシテ…
今から隙自語りを始めます。それは、「このページを読む可能性がある属性に幅があることが想像できるけれど、その摩擦を減らす方法に皆目見当がつかないので、とりあえず書けることを書いておこう」と思って紡ぐ文章です。
私は四国にある真言宗の寺の末娘として生まれ、小学五年生のときに日本神話を下敷きにしたファンタジーにハマり「神社の娘として生まれたかったナ~」とか思っていた人間である。自分の家で祀っている阿弥陀様へのお参りもそこそこに、家のすぐ近くの神社に遊びに上っていくのが好きだった。私の意志に関係なく与えられた「かすが」という名前も、なんだか神社のほうが縁が近い気がしていた(祖父による命名だと聞いている)。
そして成人したとき、キリスト教徒に「なり果て」た。これを私は「なり果てた」と表現する。現代日本でアブラハム宗教に帰依することは、どうしようもない祝福であり、どうしようもない呪いだからだ。
(※文学的な表現なので、関係性の薄い人から他称されたら怒ります。また、こういう表現を理解できないキリスト教徒のひとたちがたくさんいるのも存じ上げていますが、もしこの表現が『嫌い・わからない』と思われる方は、私とは趣味が合わないだけの話なので関わらずに生きていきましょう、と思います。バルナバとパウロがわかれることで福音が世界中にひろがったように。ロトとアブラハムが私は右へあなたは左へ」と、私たちの聖典に書かれているように。主があなたがたを祝福してくださいますように。)
日本の神々および仏は寛容である。藤本先生のその論に私は同調する。(それと同時に「寛容なのは『神仏』であって、たぶん『日本人』ではない」という論にも同調する)。私は、彼らのゆりかごで育てられ―――アブラハムの神、そしてキリストなるイエスに託された。少なくとも現在の私は、己の人生の物語をそう語ろうと思っている。(2023年末~2024年時点)