―髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった。―
「あしあと〈Footprints〉」という詩がある。
これは、20歳を超えてはじめて『キリスト教』なる文化に触れるようになった筆者が、そのかなり初期から、そして洗礼から10年経った今でも折に触れて礼拝などで語られる詩である。
※筆者の触れている『キリスト教』の文化は福音派と呼ばれる流れが中心であることは申し添えておく。
One night I dreamed a dream.
ある晩、私は夢を見た。
I was walking along the beach with my Lord.
私は主とともに浜辺を歩いていた。
Across the dark sky flashed scenes from my life.
暗い空の向こう側に、私の人生の場面が浮かんでいた。
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
それぞれの場面で、私は砂の上に2つの足跡があることに気づいた、
one belonging to me
ひとつは私のもの。
and one to my Lord.
ひとつは私、もうひとつは主。
When the last scene of my life shot before me
私の人生の最後の場面が目の前に現れたとき、私はその足跡を振り返った。
I looked back at the footprints in the sand.
私は砂の足跡を振り返った。
There was only one set of footprints.
足跡はひとつだけだった。
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.
私は、これが私の人生で最も低く悲しい時であったことに気づいた。
This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
私はこのジレンマについて主に尋ねた。
“Lord, you told me when I decided to follow You,
「主よ、私があなたに従うと決めたとき、あなたは私に言いました、
You would walk and talk with me all the way.
主よ、私があなたに従うと決めたとき、あなたはずっと私と共に歩み、語り合うとおっしゃいました。
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
しかし、私の人生で最も厄介な時期には、足跡がひとつしかないことに気づいています。
I just don’t understand why, when I needed You most,
私はただ、私があなたを最も必要としていたときに、なぜなのか理解できない、
You leave me.”
あなたは私を置き去りにしたのです」。
He whispered, “My precious child,
彼はささやいた、
I love you and will never leave you
私はあなたを愛しています。
never, ever, during your trials and testings.
試練や試練の時も、決して離れない。
When you saw only one set of footprints
足跡がひとつしかなかったとき
it was then that I carried you.”
その時、私はあなたを運んだ。
copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers
※日本語部分はDeepL.com(無料版)での翻訳です。
さて。最近、こういった記事を作る過程で、以前より課題として持っていた『仏教を、とりわけ己が幼少期から身近にあった密教について知りたい』という課題を整理するために、僧侶の仏教解説コンテンツを見るようになった。
そのなかで、上記で紹介した「あしあと」の詩が、キリスト教徒が『キリスト・イエス』として解釈するであろう部分が『弘法大師・空海』モチーフ交換されて語られていることを知った。
昔むかし、あるところに
ある男性の方がいらっしゃいました。
その方は お若い時に
大変ご苦労なされて
2回ほど自分で自分の命を
絶ってしまおうかと思われたそうです
しかし その度に
何度も『南無大師遍照金剛』を唱えて
なんとか乗り切って
そして
結婚をされ、子供さんに恵まれ お孫さんに恵まれ
そして皆さんが見守る中で 息を引き取られたそうです
ここからが昔話でございます
その男性 眠るように息を引き取られた後 ふと気がつきますと
周りが真っ白い 霧の中に立っていらっしゃいました
「あぁ わしの人生は終わってしもうたんか」
そう思い 自分の人生を振り返っていたそうです
すると 後ろに人の気配を感じました
はっと その方が その方を振り向くと
そこにはちょうど私(※語り手)と同じような恰好をした
お坊さんが立っていらっしゃったそうです
そのお坊さんを見た瞬間に その男の方は
「あっ!」「あんたお大師さんか!」
こうおっしゃったそうです
すると そのお坊さんはニコッと笑って
首を縦に振ったそうです
すると こともあろうか その男性は
お大師さんに向かって文句を言い始めたそうです
「あんた!お大師さんかい!」
「わしはな 若い時 辛くて苦しくて 何度もあんたに助けてもらおうと思って あんたの名前を呼んだ!」
「けどあんた 一遍も助けに来てくれへんやったやないか」
「わしが死んでから現れても遅いわ!」
とこう怒鳴りつけたそうなんでございます
すると それを言われたお大師さまは
少しも怒ることなく すーっとその男の方の 後ろを指さされたそうでございます
その男の方が その指さされた方を見ますと
その遥か向こうから その男の方の足元まで
細く長い道が繋がっていたそうでございます
その道は紛れもなく その方が歩いていらっしゃいました
人生の長い道でございました
そしてその道には 足跡がついておりました
その男の方の足跡と そしてもう1人分の足跡
その男の方の足跡の右斜め後ろにもう1人
お大師さまの足跡が付いていたそうでございます
その男の方は その2人分の足跡を見ながら
はぁ…そうか お大師さまはちゃんと側にいらっしゃったんや
けど 後ろにいらっしゃったから 気づかんかったんや
と思われたそうです
そして もう一度その2人分の足跡を ずーっとゆっくりと見ておりました
すると ある事に気がつきました
その人生の長い道の 2人分の足跡の
ある部分と ある部分には
足跡が1人分しか無かったそうなんです
「あっ…あの部分とあの部分」「足跡が1人分しかないけれど」「あの時お大師さまは どこに行ってらっしゃったんやろう…」
「あの時わしは1人やったんやろうか…」
不安になったその男の方は
お大師さまに 恐る恐る
お尋ねになったそうです
「お大師さま この人生の道の あの部分とあの部分には」
「足跡が1人分しかございませんが」
「あの時 お大師さまは いらっしゃらなかったんですか?」
すると お大師さまは ニコッと微笑むと 優しくこうおっしゃったそうでございます
「あの時 あなたは 辛くて苦しくて一人で歩くことができなかった」
「 だから私が背負って歩いていたんだよ」
「だから ゆっくりでも 歩くことが出来たんだよ」
こうおっしゃられたそうです
それを聞いた瞬間に その男の方は両方の目からだーっと涙を流されまして そして弘法大師さまと一緒に
また 歩幅を合わせて
歩き始めたそうでございます
(筆者による書きだし)
かねてより、弘法大師空海の伝説(民話)と、イエス・キリストの伝説(民話)に共通点が多いと感じていた私は、この現代においても、「怪談・都市伝説と見なせそうな話以外で、ヴァリエーションを持ちつつモチーフ違いで語られているお話」に直面したことに、驚きと、興奮と、一抹の不安を覚えた。
私の認識では、この詩はあきらかに近代~現代の著作物である。著作権とかの問題などは…大丈夫そうなのだろうか?どういう経緯で流通しているのだろうか?高野山真言宗の界隈ではどれくらいの知名度なのだろうか?これを聞いた人は何を感じるのだろうか?
今日はそれについて、調べうる限りのこと、思ったことを書き連ねていこうと思う。当方は「インターネット上にまだない情報をインターネットに放流する」ことが好きな身なので、この記事を記した時期にはない情報を1つは入れていこうとは思ってはいるが、いずれにせよ今から書かれるのは素人のよもやま話である。こんなどこの馬の骨が書いたともしれないウェブコンテンツを読む時間は別のコトに割いた方がいいことを、一応断っておきたいと思う。
目次
前置き
表記について「あしあと〈Footprits〉」「足跡〈同行二人〉」とでもしておこうかな…
このコラムでは、便宜上
キリスト・イエスバージョン→あしあと〈Footprits〉
弘法大師・空海バージョン→足跡〈同行二人〉
と表記することにしておく。
これはどちらも「フィクション」として提示されているコンテンツです…一応。
このウェブコンテンツを、じっさいどの属性の方々が読まれるのかは筆者の力量では推測しかねるのであるが、一応、筆者が身を置く界隈(つまりキリスト教プロテスタント福音派)、あるいは筆者が身を置いてはいないが観測しうるされうる界隈(都市伝説やオカルト言説で提示される世界観で世界を解釈することを好む人たち)の悪い癖を想像して、断っておきたい。
これは、「あしあと〈Footprits〉」「足跡〈同行二人〉」にしろ、どちらも「作者・語り手が『フィクションとして』提示しているコンテンツである。いちおう。
著者は本当にこの「マーガレット・F・パワーズ」というアメリカ人女性、なのだろうか
さて、筆者は、「あしあと〈Footprits〉」の詩が本当にマーガレット・F・パワーズ氏なのかを確かめるべく、アマゾンの奥地へ向か…わずに、とりあえず、こちらの書籍を購入してみることにした。
この書籍には、この詩が辿った稀有な運命と、作者おいてけぼり状態で著作権フリーかのように使用され巷に流通したことの苦悩などが書かれていた。
この書籍の結論からすると、
この詩の著者はマーガレット・F・パワーズである。
しかし、彼女はさまざまな葛藤の末、無償での使用許可を出した。
ということらしい。(詳細な経緯を知りたい方は書籍をお求めください…)
以下、マーガレット・F・パワーズ氏が、当時彼女の詩を利用していたので所有権を訴えるために接触を試みていた人たちに贈った手紙を引用する。
私の手紙に書きましたが、私は最後にもう一度嘆願させていただきたいのです。私は、サンフランシスコの著作権専門の弁護士―――氏と連絡をとってきました。―――氏は、「私は夢をみた」および「あしあと」として配布されている、その詩の種々の原作者が私であることを擁護するため、法的手段を続行するよう指示しました。
pp159-160
しかし私はクリスチャンとして、法的手段を取らない道を選びました。私は再び要請いたします。今後、すべての「あしあと」の詩の印刷には、私が原作者であることを示していただきたいのです。
私は1964年10月10日にその詩を書きました。オリジナルの原稿は、トロントからバンクーバーへの引っ越しの際に紛失しました。「私は夢を見た」は、「心から心へ」――1985年、バルミューダ―のハミルトンで出版された、私の名前による詩のコレクション(これを出版するための交渉を、私は1980年の2月に開始しました)――の中で、再出版されました。そしてごく最近、その詩のオリジナルコピーが発見されました。
色んな説が…あるっぽい
しかし、この詩の著作権を主張するの人間は他にもいる?ようで、この詩の出自体が現代においてはもはやミステリと呼べそうだと思わなくもない。
とはいえ、パワーズ氏も利用許可を出しているし、この詩は依然として巷に流通しているし
私はもう、他の人々が私の作品を用いていることを苦々しく思ってはいません。たとえ、その人たち自身の目的のためにしている改作物のなかに私の好まない物があったとしても、です。私は、赦し、忘れることを学びました。
p.161
ともあれ、この詩の流通はもはや止められないレベルにある状態らしく、なんというか、よくわからんがもうこの詩が語られることはもはやOKのようだ。
さすがにここに名を連ねている方々のどなたも、この太平洋に浮かぶアジアの島国・日本において「弘法大師」という宗教者と彼の系譜における『同行二人』という信仰概念の説法に使われることとなるとは思っていなかったかもしれないが。
そう。
冒頭でも軽く触れたように「弘法大師・空海」と「キリスト・イエス」は、民間伝承レベルでみると非常に似た話で似た立ち位置で語られている(いた)。それが現代においても同じようなことが起きているのだとしたら、なんだかよくわからないがエモい話だな、と私は思ったのである。
民間伝承レベルでみると、イエスと空海はかなり交換可能モチーフ
口承伝承においては、イエスと空海は似ている。(それを言うならマリアも行基も、なのであるが)
よく言われるのが「弘法機」として整理されている民間説話である。このおはなしの構成は、ヨーロッパでも広く見られる。ヨーロッパの民話集を読めばなにかしらブチ当たることと思う。
そして、弘法大師。高野山真言宗の信仰コスモロジーの中では、弘法大師は死んでおらず即身成仏したワケでもなく、「入定(にゅうじょう)」して、生死を超えた状態になり、いまなお世界と信仰者たちと共にいるということである。
私はイエス(と聖霊と主なる神から成る三位一体の神)を、今も生きて私とともにいると認識して日々を生きているが、考えかたとしては弘法大師のそれとほとんど同じである。
もちろん、真言宗は浄土真宗ともかなり違うし、どちらかというと教学に構造的にキリスト教に親和性が高いのは浄土真宗であると思う。
しかしながら、
「弘法大師を崇敬し、弘法大師と共に生きる」というスローガンを掲げながら行脚をする文化のゆりかごで過ごし、そしてキリストなるイエスに魂を託された(と、今の私はおのれの人生を語ることにしている)身としては、これはエモい話である。
※当コラム筆者は弘法大師の弟・真雅の開基した寺院で僧侶を務める親の元に生まれ、そこで育った。そして、私には一番好きな小説があるのだが、そこには若き日の空海が登場する(唐にわたる前の青年「佐伯」として描かれる。粋な脇役という立ち位置である)。
今まで登場しては消えていった数々のキャラクターたちが最終回に一同に介する演出のようなエモさがある、と個人的には思っている。
人間は3つ点があったらそれを顔だと認識してしまうというが、私は、この「あしあと」ー「イエス」ー「空海」をめぐるトライアングルを「なんかエモい」と心ふるわせても何ら問題ない立場であるのが、なんとも嬉しい。
(余談)高野山で得度した兄にこのストーリーを知っているか尋ねたところ…
私の父と兄は高野山で得度している僧侶である。帰省したおり、兄にこのストーリーを知っているか尋ねてみたが、兄は「知らない」ということだった。(※父親には聞けなかった)
当然といえば当然だが、同じ高野山系の真言宗の僧侶のなかでもグラデーションがあるのだろう。
ってコトで…同行二人の御詠歌キリスト教Ver.も作っていいよね?
弘法大師・空海の通り名は「お大師さん」「お大師さま」である。大師はイエスと同じ文字数なので、そのまま交換してみたいと思う。
あなうれし
行くも帰るもとどまるも
われはイエスと
二人づれなり
――髑髏の丘で磔刑に処された男の声が聴きたくて、こんなところまで来てしまった(結びの句)。