「ウンム・アーザルのキッチン」(「たくさんのふしぎ」2024年6月号,菅瀬晶子 文/平澤朋子 絵,福音館書店)で紹介されていたごはんについて、いくつか再現する見通しが立ったのでそれ用のまとめページです。
目次
ウンム・アーザルのキッチンほか再現ご飯
アラブ流スイカの食べ方からチーズを添える(なんちゃってver.)
アラブ流スイカの食べ方~ちゃんと白いチーズ買ったVer.今回はフェタチーズ
「白いチーズを添えて食べる」という文章があり、調べてみるとこの「フェタチーズ」が定番っぽいので、買ってスイカと食べてみました。
ムジャッダラ(レンズ豆とブルグルの煮物)
ムジャッダラは、アラビア語で「天然痘にかかった、(天然痘にかかったせいで顔に)あばたのある」という意味[1]であり、コメの間にレンズマメが混ざっている様子をたとえたもの[2][3]。
由来については複数の説があるが、「とある美しい女子が天然痘にかかり、母親は彼女のためにこの料理を作ってやった。そこに隣人が来て娘の容態を聞くつもりで”彼女はどうしたの?”と尋ねたが、母親は作った料理の名前を聞かれたと勘違いし”ムジャッダラよ(天然痘にかかってしまったのよ)”と答えた。隣人は”天然痘にかかった、あばた顔”という名前の料理だと受け取りそれが広まった」[4]というストーリーなどが語られている。
記録されているムジャッダラの最古のレシピは、1226年にアル=バグダーディーによりイラクにおいて編纂された料理書であるKitab al-Tabikhに記載されたものである[3]。このレシピは、コメ、レンズマメおよび肉を用いるもので、儀式の際に提供されるものであった。
肉を用いないものは、一般に貧しい者らが食していたアラブ料理であり、旧約聖書においてヤコブがエサウから長子の権利を譲り受けるのと引き換えに渡した「レンズ豆のあつもの」はムジャッダラを指すといわれている[2]。ムジャッダラの食生活上の重要性は、マシュリク(東アラブ)のことわざに「空腹のあまりムジャッダラ一皿のために魂を売り渡す」というものがあるほどである[5]
ウィキペディア2024年7月22日時点
ちょうどレンズ豆とブルグルの使い道に悩んでいたところ、この「ムジャッダラ」という料理を知りました。地域によってはエサウが長子の権限と引き換えにした「レンズ豆のあつもの」とみなされているということで(←このくだりは「ウンム・アーザルのキッチン」にはありませんが/ウィキペディア情報なので元資料の確認もしてみたいと思います…)
撮影して編集したらここに動画埋め込みます。
https://recipe.tirakita.com/recipe/537/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%A9
https://www.arabfoodsweets.com/post/2018/06/27
麦粥(バルバーラ)(アシュレ系統)
「バルバーラ」を作れるかどうかは未定なのですが、「アシュレ」なら作ったことがあるので一応掲載してみたいと思います。
アラブ社会のマイノリティであるキリスト教徒は「定番食」を通してアイデンティティ発揮しているという興味深い話
菅瀬晶子氏の論文の、こんなくだりを興味深く思いました。
アラブ人キリスト教徒のうち、メルキト派カトリック信徒とマロン派カトリック信徒は、ローマ・カトリック傘下に属するがために、ギリシャ正教徒よりも欧米への憧れが強い。ギリシャ正教徒やイスラーム教徒への対抗意識から、欧米により近い宗派の信徒であることを誇りとし、ときにアラブ人であると名乗ることをためらう傾向すらみられる[菅瀬2005: 132]。彼らの内面では常に、アラブ人としてのアイデンティティと、キリスト教徒としてのアイデンティティの相剋が繰り返されているのである7)。しかしながら、宗教・宗派の別を問わず、東地中海地方すべてのアラブ人に共通する食物である麦粥にキリスト教的意味あいを持たせ、それを誇ることは、すなわち彼らのなかで乖離したキリスト教徒としてのアイデンティティと、アラブ人としてのアイデンティティを結びあわせ、親和性を持たせようとする行為といえはしないだろうか。キリスト教徒たちが誇らしげに麦粥をふるまうとき、そこにはイスラーム教徒に勝る存在でありたいという、キリスト教徒としての自尊心と、彼らと同じアラブ人としてのアイデンティティを抱いていたいという渇望がこめられているのである。
人は小麦にて生かされる
―麦粥にみる、アラブ人キリスト教徒のアイデンティティの表象―
菅瀬晶子,2007
「その地域でなじみのある食べ物に、キリスト教徒としての意味合いを見出して、それを誇る」…という点に、非常に興味を持ちました。
そして、こんなことに思い至りました。
たとえば、日本でなんとなく有名になりはじめたイースターですが、じゃあこのお祝いの日に「お菓子を作ろう!(買おう!)」となったとき、我々日本人キリスト教徒はどのようなお菓子をイースターのお菓子と見做すのが妥当なのだろうか?と。
「イースターの定番のお菓子」は、キリスト教がマジョリティである国ではその国の数だけある(解像度をあげればおそらく家庭(世帯)の数だけあるのではないかと想像するけれど)
日本人は「外国の春の祭り」としてイースターを認識していると思うので、それらのどこかの文化を輸入して、日本のレシピで作る、くらいが穏当なのかな…
と思っていました。
けれど一方で、たとえば八百屋さんで並ぶおいしそうで安くなり始めたイチゴを尻目に、ヨーロッパのバターたっぷりずっしり目のお菓子であるとかちょっと変わった見た目で造るのめんどくさそうなお菓子とか、あるいは特殊な型に頼ったそれ自体は決して日本人の口には合わないだろうレシピでお菓子を作る気が向くかと言うと…お菓子作りが好きな私でも、あまり自然な流れとは思えませんでした。
そして、菅瀬氏の論文を読んで、私はひとつの道がひらけたように思いました。
日本キリスト教徒のイースターのお菓子は、旬のイチゴやキウイフルーツなどで作るショートケーキやレアチーズケーキやミルクレープや、あるいはフルーツサンドイッチなどにキリスト教的な意味合いを持たせて『ウチではこれがイースターの定番お菓子でっす』とやる、その方面でいいんじゃないか…と。
おそらく、こちらのほうが日本人からの反発は大きいだろうな、と思います。
反発が大きい方が、運動の意味は重いというのが当方の現在の考えです。
アラブ人マイノリティキリスト教徒の麦粥をはじめとするこの例は、その反発があったときに私たちを支えてくれるものになるんじゃないかと思います。