数年前、キリスト教徒ではないヒトに「キリスト教の神は教会にいない」と表現したことがあった。
その発言の意図は「日本の宗教とキリスト教の違い」を強調することはとりあえず必要だと思っていた…程度のことで、深い意味はない。
いちおう、このウェブサイトはキリスト教徒(クリスチャン、そしてプロテスタント)の方々が読まれる可能性があるから補足させていただくと、その発言をもう少し詳細に文字化するなら、以下のような感じだ。
聖霊の解釈からいうと『いつでも一緒におる』って認識でいけるやんな?教会に「だけ」いるワケじゃないって意味で…
※もちろんこの感覚も、西方教会のプロテスタント福音派の流れを客観視してない人間の意見である。「キリスト教」という言葉を使うとき、どの時代のどの地域のキリスト教の話か限定しないまま話はできないと認識する。現代においてもエチオピア正教会とカトリックだって比べたらちがうものだらけだろうし、ましてや福音派をば、である。しかし、人間における信仰の形態が違うということに慰めの根拠を見出すことができるのは、キリスト教(とくにプロテスタント)の良いところだと思う。このコラムは現代日本人プロテスタントキリスト教徒(カトリック教会のミサにも2年くらい通わせていただいている)が書いているので、何も注釈しない場合はおおむね現代日本の話だと考えていただければよいが、私の生まれ育った県(徳島県)と今の居住県(東京都内)、私の幼少期~今ですら文化の違いを感じるところなので、それらのすり合わせをしないまま話はできないだろうことを添えておきたく思う。
しかし、ほぼリアルタイムなコミュニケーションだったこともあり、表現としては「キリスト教の神は教会にいない」という文言になったと記憶している。
その時は「コトバ足らずだったかもしれない」ことにに後悔していた。
しかし。2024年になって、一周回ってこの言葉が案外正しかったことを知った。
以下、比較神話学や比較宗教学、比較民俗学界隈の書籍を読んで『コレでよかったんや』と思ったので、以下内容を軽くシェアする。
目次
「神話研究の最先端」より
今から紹介するのは主に「神話研究の最先端」にてまとめられていた篠田知和基氏の『神々の住まい―比較神話から』の一部である。
しかし、彼が引いている学者に益田勝美・中山太郎などがいる。
篠田はフランス文学者から比較神話学の博士になった人であるらしいので、もしかしたら「博士だろうが外国文学の学者に日本の何がわかるねん」と思われる方もいるかもしれないが(←記紀神話愛好者の中でこれに近い語りを紡いでいる方を観測したことがあるので、先立って言ってみた。もちろん、こういった発言が本当にあったかどうかは、直接リンクなどはしていないので引用元の明示はできないので、妄想だと思っていただいてもかまわないが)、
益田勝美はゴリゴリに国学者であるので、倒したかったら倒してほしいのは益田の方である。(雑)
『神々の住まい―比較神話から』~神社は神の居住施設でなく、教会と似ている~
篠田は、ギリシャやエジプトの神殿が『神の居住施設』であるのに対して
日本の神社=神の居住施設ではない
と書く。そして、ギリシャやエジプトの神殿は現在はそこに神が祀られているわけではないが、「日本の神社は生きて機能している」として、それはキリスト教会と同じ性格を持っていると述べる。
生きて機能しているという点では日本の神社はキリスト教の教会とおなじような性格をもっているともいえる。教会にも神はすまず、神をまつる祭式はおこなうが、どちらかというと、信者たちの集会所という性格がある。それでも教会と神社には、墓地の有無という大きな違いがある。神は宿らなくとも、教会のかたわらには墓地があり、古い習慣では教会の祭壇の下に死者を葬った。日本の神社は死の汚れを嫌い、墓地は遠ざけられるが、仏教寺院なら、たいてい墓地が隣接している。
篠田知和基「神々の住まい―比較神話から」(2022年,笠間書院)p.19
その心は、「常住する場所でなく、神を迎える季節に人々の忌みこもる場所」であるということである…らしい。
「日本の神社が、神の常住する場所でなく、神を迎える季節に人々の忌みこもる場所であったことは、ぜひこの際想起しておく必要がある。」(益田勝美『秘儀の島』)。中山太郎も『日本巫女史』で「我国の神社は、神が下ってきた時だけ宿るところ」という。それにたいしてエリアーデは、「古代近東のいたるところで、……神々は神殿に『住んでいた』」という。ジュリアン・ジェーンズの『神々の沈黙』では、「神々は、飲酒や食事、音楽や踊りを好んだ。眠ったり、とこり配偶者として訪れるほかの神像との性行為を楽しんだりするための寝台も必要とした」とある。なお、各宗教は教会、モスク、シナゴーグ、孔子廟、道観などと固有の名前で、その聖所を呼んでいる。
篠田知和基「神々の住まい―比較神話から」(2022年,笠間書院)p.29「
日本の神社は原則として神像を安置せず、鏡などをご神体としてまつるだけで、ものによっては、ご神体も背後の山になったりして、神々の臨在感はすくない。北欧やゲルマンでは神殿がめったにない。森の宗教で、森の樹木が神殿の働きをする。その点は、日本の自然信仰と似ていなくもない。ただ、日本ではいたるところに神々の神社がある。しかしこれは神々にとっては祭りのたびに臨在する場であっても常住するところではない。むしろ宮司や神官が居住する部分が神社には付属する。これはキリスト教カトリックの境界に司祭館が付属することをおもわせる。
篠田知和基「神々の住まい―比較神話から」(2022年,笠間書院)p.19
益田勝美は『古事記』で、「日本の神の特質は、神が信仰者のところに常在する神ではなく、祭りの季節にだけ来訪してくる、「やってくる神」、祭りはてて「帰っていく神」である、というところにある」と言っている。それならそれで、何処へ帰ってゆくのかが問題であろう。
篠田知和基「神々の住まい―比較神話から」(2022年,笠間書院)p.29「
樋口淳も添えておくね
樋口淳も、フランスの民間習俗と日本の民間習俗を比べて、「けっこう似てる」と言っていることを添えておきたい。
何しろ、キリストやペテロや、場合によってはマリアも、弘法大師や行基と同じように、世間の景気を見て回り、各地で似たような奇跡を起こしてきたのですから。私は、民間信仰のレベルで見る限り、キリスト教のフランスでも、日本教の日本でも、人々の世界観に大差ないと考えています。
樋口淳「妖怪・神・異郷: 日本・韓国・フランスの民話と民俗」(2015年,悠書館)
↑こちらには、フランス版なまはげというか、「それ、ほなマレビトやんけ」という案件がたくさん取材されている。写真も豊富。
神職や神道学者はそうでもないと思っている?
↑「神が住んでいる」と考えていなければ出ない言葉ではないだろうか。まあ宗教者が、教義(?)よりも民衆意識に阿るというのはよくあることなので、その一端なのかもしれないし、違うのかもしれない。
※というか、この場合、「神社は神さまが住んるワケはでないから、だれでもどういう人でも入って大丈夫」とするのが阿ることになる気もするし…。ん~まあ一般的に上位の御方の別荘地を不在の間に輩が侵入するのはフツーに忌避するか…。むーん。
そう、「神社による違い」も篠田の言うところでもある(三輪山信仰などが例)