2023~2024年に知って、「これは覚えておかないと今後の人生の課題としてぶつかる」と思ったコトバが2つある。
『唯一神教(ゆいいつしんきょう)・拝一神教(はいいつしんきょう)』
という言葉と
『今時アニミズムの話をするのにタイラーばかり引用するな』
…である。(こう書くと3つかもしれないが、このコラムの主題ではないのでとりあえずスルーする)
後者はとある文化人類学博士のぼやきであるが、彼の論文や書籍を幾つか読んでみたところ、「いまどき『アニミズム』の話をするなら(タイラーは踏まえるとして)フィリップ・デスコラとかティム・インゴルドとかに触れずに済ませられんだろ…」という意味であると認識している。
こちらもまた非常に素人には難しい話だったので、とりあえず何年か寝かせておくことでいつか何か整理できるようになることに期待している。(ご本人的にも、自分は研究者としてこの分野を先駆するにあたって、一般の読者にはわかりづらいことがあるのことはやむなし、とされている様子があるし、私は研究者じゃないのでそれでいいだろうとは思い、今現在わたし自身は各国の説話・伝承に触れるところからやっている。※氏は説話研究者ではない)
ということで、ここでは『拝一神教(はいいつしんきょう)』の話をしていく。
目次
キリスト教の拝一神教性というのはどれくらい言ってよいのか
拝一神教。
宗教類型論における一神教の一形態。特定の一神のみと排他的な関係を結び、その神のみを礼拝するもので、他の神々の存在そのものを否定せず、むしろそれを前提とする点で〈唯一神教〉と異なる。
(岩波キリスト教辞典「拝一神教」項目,山我哲雄)
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…ということらしい。この用語が気になった理由は、私自身が「この用語があったらめちゃくちゃ捗るやんけ!!」と感じたからである。
つまり、コレを書いている私自身は「キリスト教は実態として拝一神教であると説明してしまったほうが便利とちゃうか」と考えている側の人間である。
しかしながらインターネットで調べても、
ユダヤ教がある段階において拝一神教として整理される形態をしており、そこから時代をへて唯一神教と呼ばれる形態になった…
というところまではつかめたが、
古代イスラエルの神観は、他の神々を否定する「唯一神教」だったと考えられがちであるが、例えばミカ書4:5の記述などからは、王国時代末までは、他の神々の存在を前提としながらも、ヤハウェの優越を主張する「拝一神教」だった実態が想定される。
唯一神教の成立については、バビロニア捕囚がその契機になったと想定される。当時、国家間の戦いは各国が奉じる神々の戦いであり、ユダ王国のバビロニアへの敗北は、バビロニアの神マルドゥクに対するヤハウェの敗北をも意味し得た。それはユダの人々にとってアイデンティティの喪失をもたらし得る事態であり、その危機感がヘブライ語聖書編纂の原動力になったと想定される。具体的に唯一神観が示されるのは、捕囚時代に書かれたとされる第二イザヤにおいてであり(イザヤ書40-55章)、そこにはバビロニアの偶像崇拝に対する攻撃が記される。ヘブライ語聖書に記される唯一神観は、アイデンティティ保持のための戦略として生み出された思想であり、捕囚の地で多くの思想や習慣に触れた南ユダ王国の人々が触発され、吸収し、昇華していった過程を反映している。
じゃあそこから生まれたキリスト教については?
というのがわからなかった。岩波キリスト教辞典でも
ユダヤ教,キリスト教,イスラームは,いずれもこの意味での神観を旧約聖書から受け継ぐ唯一神教である。
(岩波キリスト教辞典「拝一神教」項目,山我哲雄)
となっているし、
の動画も、キリスト教をイスラム教とともに「唯一絶対神教」として解説している。
しかし、私がこれを知ったきっかけとなった宗教研究博士は各所でキリスト教の拝一神教性を意識して発言しているように思えたし、だからこそ私はこの用語が気になったのである。
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この謎を解決するために、私はアマゾンの奥地へ向か…わずに、インターネットで読める論を漁ったり図書館に向かったりした。
結論:令和7年(2025年)以降の日本語世界においては言ってよくなるんじゃないかなァ…
一般にキリスト教は排他的な一神教だといわれるが、実態として多神教的な要素も多い。たとえば、聖母マリア、天使と聖人、また宗祖と呼ぶべきルターやカルヴァン、ローカルな有名神父・司祭への篤い信頼は、ほとんど信仰にちかい。ただし学問的には一神教と多神教という枠組みは古く、現在では「拝一神教」と呼ぶ。実際には信者が数多の神の中から一柱を選んで拝んでいるからだ。
私自身、ここ数年の趣味が民間伝承漁りであるのだが、最近はブルターニュの民間伝承や習俗にまつわる書籍を読んだとき、その習俗の日本との共通点や、それでもこの土地の人々があくまでカトリックの信仰を持っているさまに驚きを感じた。
また、ラテンアメリカの習俗や伝承の研究者である三原幸久氏の論でも、「カトリックの聖人崇敬は神学的には崇拝ではないと公式には言われるが、私のような外側の人間から見たら違いがよくわからない(三原幸久先生の書いた文にこのくだりがあった。元気が出たらまた引いてくる。たぶん世界神話伝説大系 の、最後の研究者たちが何人か寄稿しているような書籍から)」といったくだりを見つけ、
やはりこういった様子を端的に説明するのには、とりあえず、〈拝一神教〉という用語が便利なのではないだろうかと思った。
少なくとも、キリスト教を拝一神教として考えるかとうかは別として、唯一神教・拝一神教といった学術用語があり、それらの定義から説明するほうが、現代においては言っている当人が何を指しているのかおおよそ不明瞭であることが多い「一神教・多神教」という用語を使うよりは適切な場面が圧倒的だろう…と感じる。
さながら、「アニミズム」という用語の使われ方がかなりの場合不適切であり、もはや通じないコトバに成り下がりそうなのと同じように。
…ということで、まあ、現代日本人キリスト教徒たちの中でも意見は分かれることとは思うが、キリスト教を拝一神教として考えるのは別に無理筋ではなさそうだ。
繰り返すが、私は、現状の日本においては『キリスト教は拝一神教である』と言ったほうが色々ラクじゃないかと思う派である。
なので私自身は今後も「拝一教教」としてのキリスト教について考えていきたいし、その過程で「キリスト教は実態としては拝一神教であると考えることができる宗教だ」と表現することもあると思われる。
参考資料
→(動画)